見出し画像

オーロラが揺れている

留学中、オーロラを見に出かけたことがある。
フランス語に、あるいは勉学そのものに疲れ果てていた私は、学生の本分を忘れヨーロッパ圏内の旅に出かけるようになっていた。同じく留学中の友人を一人、一人と訪ねる中で、帰りの飛行機で隣に座ったのが日本人カメラマンだった。聞けば、北極からキューバまでを写真に収めていて、乗り換えてエジプトに向かう途中なのだという。
「これから行くべきところ、見るべきところってどこでしょうか」
そう訊くと、全部だよと言って笑われた。
「世界全部だよ、だから行きたいところに行くしかない」
「それならオーロラを見てみたいです」
脳裏に浮かんだのは、とあるファンタジーの後書きだった。世界を股に掛ける少年少女の話を練るため、イエローナイフとモロッコの地を踏んだ作家のことを伝えると壮年のカメラマンは目を細めていた。
そうして私は二泊三日の強行スケジュールをおして、フィンランド・ラップランド地方のイナリという町に向かったのだ。

一面の雪景色は曇天の下では距離感のない平坦な白に、晴天の下では鮮烈な青に輝くことを知った。トナカイという生き物とラップランドに生きる人々とビルベリーのジュースの味を知った。横浜の街で育った私にはどれも新鮮だったけれど、ここではやはりオーロラツアーの夜を書くべきだろう。
雲の切れ目を探してバスから降りると、雪がぎゅりぎゅりと雪靴の下で音を立てた。暗闇の中では案内人が確認するスマホの明かりにまず視界を奪われる。オーロラを予測するアプリやラジオなどもあるらしい。外気は寒いことには寒かったけれど、大量に準備してきたホッカイロのおかげか水筒に入れたお茶のおかげか、他のメンバーのようにタップダンスして体を暖める必要はなかった。彼らの足音がうるさい。
その内に目が慣れてくる。雲に背を向けて天を仰げば、光が私に降り注いでいた。
星がのっぺりしたドーム状の空を埋め尽くしている。知識として持ってはいても、星の光に強弱があることを初めて実感した。星座として組み合わせるのが馬鹿らしくなるほどの数だ。大小様々な、清潔な豆電球を五箱、距離もばらばらにぶちまければようやく似てくるだろうか。星あかりで木のシルエットがはっきり浮かび上がってくることに、私は驚いていた。
けれど目に映るのは透明な白ばかりで、揺れる紫や緑の片鱗はどこにも見えなかった。
案内人が呼びかけバスに乗り込む。場所を変えた先でもオーロラは姿を現さない。時折見える地上付近の赤さを指さすと、あれは車の光だと案内人は肩を竦めた。
「あの位置にあるはずなんだ。pHも今日は最高基準で、空は晴れてて、ベストコンディションのはずなんだ」
なるほど言われた方角に目を凝らせば、よく動く紫色の点が見えるような気がした。
案内人はシャッターを切りながら何度か確認をしていた。見渡せばツアーの他のメンバーも手持ちの重厚なカメラのファインダーをじっと覗き込んでいる。私はといえばスマートフォンの標準カメラの性能では星の光すら満足に残せず、早々にしまいこんでいた。
飛行機を乗り継いでまで来て、目的のものが見られないのは残念だ。だが、むしろ、この森の空き地でまで人々が機械の箱を見つめているのは気持ちが悪い。オーロラを見たのだと、その物証がなければ見たことにならないのだと、そんな態度に人の矮小さを感じて吐き気がした。
ツアーの終わりが来て私達はすごすごとバスへ、それぞれの宿へとと引き下がる。ツアー客がそれぞれに落胆を漂わせる中、案内人が一番悔しそうなのが少し面白かった。

ホテルに戻り、部屋に入り、エゴが爆発したように私は泣き崩れた。
オーロラの仕組みはどの季節でも起きていることだと後になって調べた。見ることができるのが、季節と時間と限られているだけで、いつでもオーロラ自体はいつだってあそこに存在している。
けれどそれならば星も同じなのだ。宇宙に星は無数にあり、住む町から見えるのが四つか五つなだけだ。
世界は美しい。けれどその美しさを享受するには条件がある。それが準備であり知識であり感性であり、「世界が美しい」ことを証明する目なのだ。
私は、それを見ることが出来ない。それを見る目を持てない。美しいものを見たところで、エゴや汚さを見つける私が美しい人になれるはずもない。
私は寒くなかった。私は星を美しいと思った。私をあそこに取り残してくれたらよかった、人の気配のない、清潔な光と音と寒さの下で凍えてしまえたならば、少しはましになれただろうに。
私が汚く泣き濡れている上で星辰は確かに瞬いている。オーロラが揺れている。美しい景色が、ゆっくりと回っていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?