存在しないものへのノスタルジー、炉心融解、反出生主義

 季節は夏。澄みきった青空から照りつける、金色の日差し。一面に広がる向日葵畑を背にして、白いワンピースの少女がこちらに笑いかけている-------

 よくあるイメージですが、こんな状況を実際に経験したことがある人はいるのでしょうか。僕はありません。『花に亡霊』を聞いて、そんなことを思いました。経験したことがないはずなのに、どこか懐かしさを、ノスタルジアを伴いながら感傷に浸ってしまう。どうしてなのでしょう。

 いきなり暗い気分の話に変わって申し訳ないのですが、今自分は部屋にいるはずなのに、帰りたいって思ったことはないでしょうか?帰る場所はここ以外にないはずなのに。存在しないものへと心が向かっていっている点で、先程の話と似ていると僕は思います。帰る場所がないのに、どこへ帰ればいいのか。半分余談ですが、僕は、帰りたいって兄弟から言われたとき、土に還るの?と応えたことがあります。それはさておき、例えば、胎内回帰、みたいな答えかたは一つあるかな、と思います。かつて自分が存在した場所へ、母親に守られていたであろう、安心できる場所へ、そこでなら今の自分の辛い気持ちも和らぐ気がする……バブみって言葉が流行ってますし、結構普遍的な思いなのかなと思います。現実には、人口受精で誕生していた可能性もありますし、子宮によって誕生するのが素晴らしいとかそんなこともないですし、女性の身体や母親というものを神聖視しすぎているところがあります。なので、もっと前のところへ帰りましょう。どこかというと、自分が生まれる前の世界です。

 人生で絶対経験できない世界が2つあって、1つは自分が生まれる前の世界、もう1つは自分の死んだ後の世界です。帰るためには今よりも前の世界でないといけませんから、郷愁は生まれる前へと向かっていきます。そこはどんな世界なんでしょう。といっても、経験するために必要な自分の自我、主体が存在しないので、イメージすることすらも許されません。ただひとつ言えそうなのは、今ここで、しんどいとかつらいと感じている自分の心は、自分が存在しないので、当たり前ですがその世界には確実に存在しないということです。その世界は、自分が感じていた苦痛が存在しない分だけ、自分が今いる世界よりいい世界なのかもしれない、そんな思いが、普段は浮かび上がりませんが、胸には沈殿しているのでしょうか。ボーカロイドの鏡音リンが歌う曲に『炉心融解』というのがあるのですが、歌詞の最後は「僕のいない朝は 今よりずっと素晴らしくて 全ての歯車が噛み合った きっとそんな世界だ」というフレーズで締められています。『炉心融解』は歌詞の中心に「核融合炉にさ 飛び込んでみたいと思う」と、溶けて消えてしまいたいという思いがあります。念頭に置かれているのが、仏教やインド思想の梵我一如みたいな、世界の全てが自我になる宗教的経験なのか、あるいは逆に自我を完全に消失させてしまうことなのかはなんとも言えませんが、いずれにせよ、自分が自分でない世界、個体性を失った世界にぼんやりとあこがれを持っている感性があらわれています。

 聖書の世界に楽園追放というお話があって、楽園で暮らしていたアダムとイブが神のいいつけを破って知恵の実を食べてしまい、楽園から追放されるという筋立てなのですが、その中で、知恵の実を食べた直後二人は自分が裸であることにはじめて気づいて、体を葉で覆う、というくだりがあります。このストーリーは解釈がいろいろできるので、ここから先は僕の感想なのですが、知恵の実を食べることで自我が芽生えその後楽園を追放されたのだとすれば、自我が存在しない世界こそが楽園、理想の世界なのだという感性の表れのひとつの形なのではないでしょうか。身体はあるけど自我はない世界なら、世界とは自分にとって投げ込まれた場所だったり、苦痛を与えてくる場所だったり、自分が悪戦苦闘して切り開いていかなければいけない場所ではなく、世界と自分が連続している、子供の体験の中にあるものに近い、自分を包み込んでいるものと感じられたりするのでしょうか。胎内回帰のイメージともつながっています。

 自分、あるいは自我はかつて存在しなかったし、そちらの方が正しいあり方なのかもしれない。この思いは人間存在の根本条件から、人間が必然的に持ちうるものです。なので、冒頭のような存在しないものへのノスタルジーは、自分が体験したことがないものに理想を感じてしまうことは、自我が存在しない世界への思いに由来しているのかな、とそんなことをつらつら思いました。

 ここからは余談ですが、最近反出生主義という思想が注目されていて、人間を誕生させることは悪だ、みたいな主張だそうです。人間はつらさを経験するんだからいっそ誕生しない方がいいとか、誕生する際に同意がない、とか。前者はいいことも経験するだろとか反論されそうですし、同意に関してはそもそも誕生前には主体が存在しない以上問題にすることができないし、議論の詳細は知らないので断定できませんが、なかなか維持しにくそうな主張だな、と思うのですが、この反出生主義に反対する人は、出生させることによって、自分が存在しない方がよかったんじゃないかとさえ感じるような繊細な自我というものを世界に作り出すことについて、畏れのようなものを感じることはないのかな、と思います。あるいは、出生させた後、世界で何もなせなかった自分の代理として子供に過剰な期待をしたり、一つの主体を自分の願望を満たすための手段として誕生させることに罪悪感はないのかな、とかは思います。リベラルとか社会の良識派でも、子供を生みたいという家庭が安心して産めるように環境を整備しろ、とか無邪気によく言ってますが、子供を生むことの意味の他に、子供を生む人々にリソースを割くと子供を生まない人々にその分のリソースは割かれないことになりますから、人生の選択の自由が個人毎に尊重される世界で子を生むという選択をする人々を政治的に優遇する根拠が僕にはよくわかっていません。そんな人に限って人を生産性で判断するなとか言ってるような印象もあります。まあ、社会は人口を再生産し続けることで成り立っているんだから社会で生きる人間には子供を産む義務があり、産まないやつらはフリーライダーだ、出ていけ!とか言われたら、すみません、税金払いますから……と謝るしかないですけど。

あと、生まれて来ない方がよかった系の議論では、みんな自分の道徳的優位性を示したいのか、「人間にそんな風に思わせない社会作りが大事だ!」とか結論でよく言ってて、それはそうなんですけど、その話は反出生主義とは本質的には関係ないよね?といつも思っています。

長くなりましたが今回はこれで。ノスタルジーの話からずいぶんなところへ飛んでしまった。それでは。

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