粛清!!ロリ神レクイエム☆/しぐれうい(9さい)歌詞解釈


 『粛清!!ロリ神レクイエム☆/しぐれうい(9さい)』(以下長過ぎるので、『ロリ神』と表記)は、現在とんでもない速度でインターネットを駆け巡っている電波曲である。この曲を聞きながら、あらためてロリコンないしオタクの心理を眺めたり、曲を味わったりしてみようというのが今回の趣旨である。なお、ここでのロリコンとは、あくまでオタク文化、二次元愛好文化の文脈での用法に基づくものを対象とすることを最初にことわっておく。

https://youtu.be/Ci_zad39Uhw?si=PsQZKWGBAlcaSzpw

 さて、この『ロリ神』には、とにかくロリコンに対する罵倒が満ちている。ネットミームをからめながらリズミカルにオタクに対する嫌悪感を口にするしぐれうい(9さい)の声は、耳に心地よくすらある。曲中にも、罵倒に反応する男性オタクの声として「助かる~ゥ」を連呼するパートがある。まずは、この罵倒されることに対する快感を分析していきたい。

 導入として、『ロリ神』の歌詞の中の「嗚呼この世の醜さを/集めて描いてみるよ/真っ白なキャンパスが汚れて泣いている」というフレーズを取り出してみる。これは私の勝手な読み取りなのだが、この部分には3つの意味がある。

 1つは、Vtuberであると同時にイラストレーターでもあるしぐれうい先生の側面に注目した、描かれる存在としてのロリコンの姿が社会的な害であるという意味である。イラストレーターの視線は、客観的、社会的な視線と重なっている。

 後の2つは、「真っ白なキャンパス」を比喩的に捉えたものである。1つは、「真っ白なキャンパス」を純粋な存在としてのロリと捉えた上で、ロリはロリコンと接触すると汚れる、傷つけられるという意味である。もう1つは、「真っ白なキャンパス」を生まれた時点での人間の心と捉えて、もともと綺麗な人間であったはずなのに、いつのまにかロリコンという汚れた心を持ってしまっているロリコンオタクの人生の悲劇(上品すぎて合わない表現だと思う)を表しているというものだ。

 ロリコンが社会的に許されないことは周知の事実である。まだ自我が発達しきっておらず、法的に成人と扱われない人間に対して、成人が関心を向けさらには愛玩の対象としようというのだから、当然である。一方、自分の中のロリコン要素に気付きながら、社会の中でなんとか生きている人もいるのである。この気付きとは、自分は今まで漫然と生きてきたが、本当は社会から許されている存在ではないという気付きでもある。このような人々は精神の中で、自分の中でどう折り合いをつけることとなるのか。ロリコンを否定しつつ自分の存在自体は肯定する方法が必要となる。それが、ロリ自体に否定されるというタイプの二次元創作物の中にはあるのだと私は考える。

 ロリコンは許されない存在である。ゆえに、罰されねばならない。それは、ロリコン自身も分かっている。しかし、社会から罰を受けたくはない(誰だってそうだけれども)。性癖と呼ばれるものにはままあることだが、もともと望んでなったわけではなく、気づいたらこんな自分がそこにいたのだ。本当はこんな、社会的に認められないような要素を持つ自分になんてなりたくなかった。でも、こんな自分でも、ただ生きていることくらいは許してほしい。それでも罰が必要ならば、せめて、罰を自分で選びたい。自分で自分を罰したい。願わくば、自分が禁じられつつも愛してしまう対象であるロリ自身によって断罪されたいのだ。そこでロリコンオタクが自分を罰する方法として選ぶのが、創作物という空想的な領域における、ロリによる、ロリコンの否定なのだ。ロリコンはロリによるロリコンの否定を経てはじめて、自己の中のロリコン性を否定とともにはっきりと対象化し、距離をとることができるようになる。こうして、ロリコンオタクは社会的な存在としての自己の生を、自己の中で確立するのである。

 なぜ『ロリ神』はロリを〝神〟としているのか。神は従わない存在に罰を与える存在であると同時に、恵みを与える存在でもある。すなわち、ここでしぐれうい(9さい)は基本的にはロリコンという社会的に許されない存在を罰する神であるのだが、ロリコンにとっては罰を与えてくれるということ自体が恵みなのである。この曲では9さいが救済を与えているというのは、すでに100万回は言われているわけだけれども、あえてここでもいっておく。『ロリ神』が再生される度に、絶望に満ちたオタクの心に神が降り立つのである。

 ここから、曲全体の(個人的な)解釈に移る。ひとまず、歌詞中の「ういは、全てを赦します」を手がかりに進めていきたい。筆者は『ロリ神』を無限ループしながら書いているので、読者もぜひ無限ループしながら読んでほしい。

 さて、ここでの「赦し」とは何であるのか。これは、うい(9さい)が、醜いクリーチャーのようにデフォルメされたロリコンオタクを「ういビーム」によって粛清する場面の直後に出てくるフレーズである。私は、この意味を、ロリコンオタクがそのままロリコンオタクであることを許されたという意味とは考えない。ここには、しぐれうい先生自身がうい(9さい)である前に、オタクでもあること、女子高生が好きであることを公言している(改めて文字にするとすごいな)こと、イラストレーターやVtuberとしてオタク文化を作る側の立場でもあることと関係していると思う。

 この曲は「触ったら逮捕!」という、身体性を連想させる凄まじいインパクトを伴うフレーズから始まり、「法廷」「おまわりさん」など現実を表すフレーズも続いていく。そして「骨の髄まで浄化する」というこれまた身体を連想させる天の声とともにういビームによる粛清と赦しがある。その後、先ほど見た「描いてみる」「真っ白なキャンパス」や「打ち込んでいる虚無には何の意味があるの?」といった、創作や空想を連想させるフレーズが現れるようになる。その後もロリコンのオタクを否定し人生の終了を宣告するフレーズが続いていくわけだが、いったんここまでの流れを解釈すると、これは、ういビームがロリコンオタクの現実の人間への欲望を完全に否定し消滅させ、二次元的な存在に対するものだけが残されたということを意味しているのではないだろうか。ういビームによる粛清で二次元的な存在にしか興味がなくなると、いったん全てが許される世界となるのである。しかし、そうであるなら、ここでうい(9さい)によるオタクの否定が終わらないのはなぜか?

 うい(9さい)は、MVにおいて、ういビームの直後、天使の輪のようなものを着けている。私の考えでは、ここでうい(9さい)は前半からは変化し、現実のロリを象徴する存在から、二次元に存在するロリを象徴する存在へと変わったのだ。だから「触ったら逮捕」されるはずのうい(9さい)が、聞き手のロリコンオタクの「手をつか」むことができるようになるのである。ここでの「楽園など無いから」は、ういビーム前にあったフレーズ「楽園でほらねんねしな」と対照となっている。

 逆算して、ういビームの前の「楽園」は、現実世界ではない、二次元世界という、全てが許される世界が想定されていたことになる。しかし、その「楽園」はないことが宣告される。端的にいうと、二次元世界などというものは実在せず妄想の産物であり、オタクは何もないところ、つまり「虚無」に「打ち込む」他ない存在へと化してしまっているのである。ある意味で、現実での生が終わってしまっているのだ。
 
 しかし、希望も残されている。「ピリオドをどうぞ この手で押してあげゆ」の「この手で」である。なるほどオタクは、二次元にしか救済を求められない哀れな存在と化している。しかし、この世には、Vtuberのしぐれうい(9さい)も存在しているのだ。しぐれうい(9さい)は、バーチャルロリとして、オタクの世界で、オタクを罵倒する存在として、生きていてくれるのである。そのおかげで、オタクたちは今後も、ロリコンとしての自己の生をしぐれうい(9さい)によって否定されつづけながら、そのことによって、社会のなかで生きていくことができるのである。『ロリ神』のもともとの曲名は『ブタバコミュニケーション』だったそうだが、このオタクとのコミュニケーションがVtuberしぐれうい先生の活動であって、まちがいなくオタクたちは助かっているのである。少なくともしぐれうい先生にとってオタクは、好きでも嫌いでもない、中立の存在なのだから。


 最後に、完全な余談なので読者の方にはもうここで終わってもらってよいとことわった上で、オタクの心と自己否定について書いておこうと思う。YOASOBIさんの『群青』では自分の感情に素直になることが言われているし、HoneyWorksさんの『可愛くてごめん』でも自分の趣味を肯定することが歌われている今の世の中のオタクたちは、自分の心の中に自分を否定する部分があることに共感できないんじゃないかという不安を持ちながら、私はこの文章を書いている。でも、今も陽キャ/陰キャという区別の中に、いまのようにオタクではなかった自分を想像することはあるし、なんとなくオタクであることを表に出せないという思いも残っているのだろうと想像している。オタク生活とは趣味の領域のことがらであって、経済の領域、すなわち人間の物質生活を豊かにするために日々活動している方々に頭が上がらない。オタクは経済を回すなどと言ってみても、所詮消費するだけのことであって、作る側ではないのだ。オタクは趣味に使っている時間をもっと社会のために使ったら?私たちは使っているよ?と言われたら何も言い返せない。つまりはオタクはオタクでなく、あるいは趣味的でなく生きている人々に対して根源的な意味で負い目があるのである。自分を否定することは、自分を取り巻くオタク世界の中だけでなく世界全体のなかで自分の位置がどうなっているかを確認するうちにどうしてもでてくることなのだ。それでもオタク文化は人生を豊かにするものであると言うためにも、人の言葉に対して全否定か全肯定かだけでなく、自分の知見を深めるためにいろいろな分野や本にまずは触れることが大事だと日々思っている。 

 

 

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