動物倫理の新書を読んだので、感想

はじめに

 集英社新書から『はじめての動物倫理学』(田上孝一著)という本が出ていたので、買って読みました。以下はその自分なりの理解と感想です。なお、私は現在、肉食を行わない人、いわゆるビーガンではありません。この立場からこの本にどんな感想を持ったかを書いていきます。

「種差別」という概念


 動物倫理のキーワードはおそらく「種差別」です。人間を人間であるというだけでひいきしたり、動物を動物であるというだけて不当に取り扱ったりしてはいけないということを表現するために使われています。最初は私もよくわからなかったし、今でも完全に分かったといえるかは分かりませんが、もう少し掘り下げて書いてみます。

人間の価値の根拠

 人間は権利のある存在と言われます。これは、人間は価値ある存在であるからそれ相応に尊敬をもって取り扱わなければならないということです。これであっても現実に十分守られているかどうかあやしいところはありますが、一応共有されているものとして話を進めめす。問題は、なにゆえ人間は価値ある存在だと考えられているのかということです。モルカーの流行で、「人間は愚か」などと感想を述べるのが流行ったりしましたし、人間なんて自己中心的でどうしようもなく卑小で価値なんてない存在と考えるのもおかしくない見方です。それでも社会の中で人間は人間を価値あるものとして取り扱っているなら、それはなぜかということです。

 例えば、人間は理性ある存在と言われます。これを根拠にして人間は価値ある存在と言えるでしょうか?おそらく言えません。天井から吊り下げられたバナナと台と棒を用意してその部屋にサルを入れる戯画化された実験がありますが、ほかの動物も知性を持っているからです。これでは、人間が動物と比べて優れていて価値があるとは言えません。そんな原始的知性ではなくてもっと優れた科学技術を持っているから優れているという反論が考えられますが、これもおそらく無理です。現代の科学技術の基礎に相対性理論や量子力学などがありますが、別に社会の個々の人間がそれらを完全に理解しているとは言えないからです。別の言い方をするなら、私たちは、別に数学や科学が得意だから人間を尊敬しなければならないというように考えて道徳的に振る舞っているわけではありません。そんな社会では、私など理数の苦手な人間は即座に不要とされ路頭に迷うはめになり、私はそれを受け入れることができません。

 そもそも問題は、道徳的な取り扱いの次元での話です。一般的に人間は人間を相互に尊重するように振る舞いますが、それはなぜか、またそれは動物をそうは扱わない理由を含んでいるかというように考えないといけないのでしょう。ここで倫理学の有名な功利主義、義務論、徳倫理学などの話が出てきます。これらが、人間がどうして道徳的に振る舞うのかを説明する理論だからです。徳倫理学についてもこの本では述べられていますが、どちらかというと徳倫理は人間関係というよりいかに個人が有徳な存在になるかに焦点があたるようなのでここでは触れません。

功利主義

 功利主義では人間を快と苦の感じを持つものとして考え、快を増やすことが善であり正義、苦痛を増やすのは悪であり不正義という分かりやすい原理です。これに従うと、たとえば暴力を振るうのは相手に苦痛を与えるから悪であり、親切に振る舞うのは相手に快を与えるから善、というように行為の結果から善悪や正義を判定できます。そして、この原理が動物を排除する原理を含んでいるかというと、含んでいません。動物も快や苦を感じるならば、動物も快を増やし苦を減らすように取り扱われるべきだと言えるからです。ここで、よくある、ビーガンは植物も大事にしろというような意見がどうしてふさわしい反論と言えないのか分かります。植物は神経を持っていないので、快も苦も感じないからです。生命であるということが道徳的に取り扱うための条件ではありません。

功利主義の問題

 さて当然功利主義からすると動物食など言語道断ということになるのですが、それでは神経のない動物や痛み、苦痛を感じる動物を作ることができたらその動物は食べてよいのか、という話が当然出てきます。動物と書きましたが、人間でも同じことです。極限の話をするなら、死自体に苦痛はないという話すらできます。ナイフで刺すなどした時の死に至る過程は苦痛に満ちているでしょうが、たとえば頭の上から猛スピードで突然巨大な鉄の塊が落ちてきて反応するまでもなく押し潰され死んでしまったら苦痛を感じることはないですが、これが悪でないというのはさすがに無理があります。この事例は功利主義で処理できるかもしれませんが、閑話休題。ともかく、痛みも苦痛も感じないようなクローン人間を作ってそれを食用にしていいというようなことを我々が受け入れないならば、それは我々が普段意識する道徳感覚が功利主義と一致する部分はあるものの重なっていない部分もあるということでしょう。そこで義務論が登場します。

義務論

 義務論について私はまだよくわかっていないところがあるのですが、私は人間が自分の運命を自分で決められるというところに価値を見出だしている理論だと理解しています。カント由来の考えである自律ができるということをもう少し広く取り、生の主体であることが尊厳の根拠だと組み換えて動物の権利の理論を作っているようです。動物だって自分がこうしたら未来にはこうなるというように、人間と同じ形式で考えているかは分かりませんが、主体として未来に向かって行動しているのだから、同じように尊重されてしかるべきだと考えるのでしょう。自由な存在として自己実現を行っている点では人間と同じであり、動物だけ劣っていると考える理由はないということです。

 私としては、もう少しこの義務論に紙幅をとって解説をして欲しかったと思いました。あまり明るくないのではっきり分からなかったのですが、啓蒙されていて実践理性を使用する市民というような人間理解では狭すぎるという問題意識がカントの説明を少なくさせているのかもしれません。人間のもっと幅広い存在のありかたに着目した結果フェミニズムやケアの倫理もあらわれ、科学の発展の結果人間と動物との親近性も意識されるようになっており動物も人間も存在としてたいして変わらないのではないか、と考えられはじめているのが現在の動物倫理の隆盛なのでしょう。

現代日本の具体的な動物の取り扱いの評価

 ごちゃごちゃ書きましたが、ここまでは二章までの話で、具体的な現代の動物との関わりかたについて述べられる三章に私は一番強い印象を受けました。倫理学者のピーター・シンガーが動物倫理を広めた時も本の中で具体的な動物の取り扱いのひどさを告発したことが広まる大きな理由だったそうですが、この新書でも同じことを感じました。畜産は我々が想像するような広い土地で牧歌的に行われる訳ではなく、狭い敷地の中に大量に押し込められまさに工場製品のように扱われていることや、環境負荷の重さなど人間中心主義をとったとしても見過ごせない問題が書かれています。この新書はこの章から読み始めるのもよいと思います。正直ここまで理論的には正しいだろうけど別に……と思っていたのですが、この章で動物の問題は人間の生活にとって切実なのだと強く意識しました。動物実験の箇所について、必要不可欠であったり生死に関わる問題についてはある程度認められ必要不可欠なものだけ行えばよいという主張について、選択と集中により効率的な科学の発展を目指せるという根拠の薄い主張をするどこかの組織を思い出したりしましたが、そういう医療的な実験は一部であり、大多数は美容などを目的とした真に不要不急な、法的にも求められていない動物実験が大多数だと聞くとそんな話はささいなことで、動物を人間の手段として取り扱うことが全面的に認められるわけではありません。毛皮の不使用や動物食も、それがない生活は十分可能であるにも関わらず続けられていることが問題視されます。一方で一般読者に対する筆者の姿勢は強権的だったり圧を与えるようなものではなく、人間は欲望を持った存在であり欲望は簡単に捨てられるようなものではなく、倫理は誰にでも実行できなければ意味がないというリアリズムに貫かれており、そこに真摯さを感じました。

自然や社会制度への拡大

 以下さらに人間中心主義批判、環境倫理、資本主義批判(マルクスとの関わり)へと話が広がり、この新書の独自性を発揮しています。人間と動物、人間と自然、人間と社会制度まで視野に入れてはじめて人間を総合的に理解でき、その地点から人間はどうあるべきか問いかけられてくるわけです。そろそろ体力がなくなってきたので別の話とまとめをやって締めに入ります。

最後にまとめ

 根本的には、人間が人間に適用している倫理原則を振り返ってみると、その原則は動物にも適用される、ある点でもって人間を価値ある存在と考えるならその性質を動物も共有する以上動物も価値ある存在と考えないならば不合理となるということを動物倫理は主張しており、その実践の一部がビーガン活動です。命をいただいたからいただきますって言って感謝すればいいんだみたいな俗流原始宗教じみた話ではないわけです(この種の意見をネットで見る度、動物は殺されたとき食べられてくれてありがとうって言えば許してくれるのか疑問に思います。感謝の対象は動物を殺してくれた人や料理を作った人や運搬をした人でしょう)。宗教ということで思い出すのがランドル・コリンズの『脱常識の社会学 第二版』(岩波現代文庫)に出てくる儀礼の話です。大雑把に言うと、集団で集まって同じ行為(発声なども含む)をし、信仰の内容を示すエンブレムを共有することで個人は集団の一部だと実感し集団から力を得、相互不信と自己中心的振る舞いの世界を越えて仲間意識を持てるようになるそうです。ここからすると、動物と共同で行為することは難しいため、仲間意識を持つのも難しいのかもしれません。また、昨今よく問題視される、女性蔑視を共有して内輪ノリを作る良くない集団のように、共同で、犬や猫のようにかわいがる動物とその他の動物をわけ、後者を食の対象とすることで人間同士の仲間意識がつくられている可能性もあります。ここでは否定される対象が存在することではなくて、共有されるルールの妥当性、信仰の内容が問われています。ルールを守れない人(否定される対象)をどう処遇するかは別の問題ですが、信仰が定期的に儀式を要求し忠誠心を確認するように、倫理という社会のルールも定期的に社会にふさわしいものかどうか確認される必要があります。何かを嫌悪することを共同で行う仲間意識はある種自然的でもありますが、倫理はそうではなく、人間を権利的存在とみなすならばそれはなぜか、価値の根源はどこにあるのかなどを振り返りながら作り直していく人工的な作業であり人造宗教の一種なのかもしれません。人間は世界やその中の存在と関わりながら生きていくことが必須である以上そのルールを常に良くしていくことが求められており、この本もその手助けをしていくことになるのだろうと思います。少なくともこの本を読んだあとの肉料理は、私に無言で何かを語りかけて来ています。


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