アウフヘーベン

アウフヘーベンという言葉をご存知だろうか?哲学の話題の時に弁証法というものがあるがそれにおける重要な概念だ。メインの主張Aに対して反対論的主張Bがあって、それらに対してより良い解決策C案を出すということがアウフヘーベンをするということだ。

多くの人はA、Bのどちらかがよくて反対側は間違っていると考えがちだ。でもC案を知っている立場からその両者を見ると、思考停止していてもったいない感じにみえる。

人は成長するに従って、いろいろな課題を乗り越えて、アウフヘーベンしまくる存在である。脳の神経回路がアウフヘーベンに向いているのだろう。

世界をつまらないと感じるとき、それはあなたがアウフヘーベンしすぎて、「まだA案、B案で争っているの?」というのをC案を得た立場から見ている状態ということだ。そういうときは、もっとレベルの高い環境を目指したくなるのが自然なのだろう。そういう環境では自分がC案だと思っていた考えが実はA案にすぎなかったということに気づかされ、またC案を探していくことだろう。そうやって人は成長しいくのだ。

継続的に成果をあげている人はその分野においてアウフヘーベンのレベルが高い人であると考えられる。つまり、いろんな課題に直面しそれらを解決してきた経験をもっているということだ。

そしてこのアウフヘーベンのレベルの高さは経験によるので、人によって異なるが、同じ結論に達することもある。例えば、詰将棋の初心者がたまたまみつけた答えが詰将棋の達人がいろいろな点を考慮して見つけた答えと一致することはよくあるだろう。ただし、達人は経験から法則的なものをつかんでいるので、平均的に初心者に負けることはまずないだろう。

しかし、一般的には、ある分野でのアウフヘーベンのレベルが高い人と低い人とが会話をしようとした時、意見がすれ違うのは普通だろう。むしろ、会話をすることでお互いに別の案があることを知り、アウフヘーベンのレベルを向上させる機会になっているのかもしれない。そうであるならば、会話とというのは自身を成長させる非常に良い手段かもしれないということだ。

普通の会話だけでなく、芸術作品にふれることだって意味があるだろう。作者はたいてい、「私のC案で、A案とB案で争っている現状を打破したい」という強い熱意から創作しているわけで、そこには作品を通した会話がある。

世の中にはなんでこの作品がこんなに価値があるとされているのかわからないということがあるだろう。しかし、そのような作品であってもそれが価値をもつとされた背景には、その時代、文脈においては重要なC案の提案があったということが考えられる。

政治に関して言えば、アウフヘーベンのレベルの違いは、民にとって最適な選択を妨げる可能性があるともいえるかもしれない。つまり、いろいろな点を考慮した結果、B案に少し変更を加えて結局C案として採用できそうでも、いろいろな点を考慮できていない大多数の民がA案を支持している場合、A案を採用して失敗するということになってしまう。

B案の悪い点をメディアが伝えまくると、B案=悪という状態で思考停止してしまう。実はB案を少し修正したC案がA案よりはマシであるにもかかわらず、結局A案を選んでしまう。

メディアはB案反対派の専門家ばかりをゲストに迎えることで、そういったことがある程度できてしまう。「専門家が言うから間違い無いだろう」という思考停止が発生してしまう。

もちろん専門家から学ぶことは多い。芸術作品の例でもみたように、専門家はC案を提案してくれることが多い。「専門家が言うからC案だろう」と考えて、しばらくはそのC案と思われる案の素晴らしさを知っている自分に酔いしれるところだろう。この酔いしれているうちに決断をしようとすると、思考停止状態での決断になってしまう。

ある程度優秀な人でも酔いしれるだろう。しかし酔いしれているその間にも別のC案がないかをしっかり検討し続けているのが本当に優秀人にありがちな傾向である気がする。というか、酔いしれること自体が目的になっていった結果、めっちゃ成長してたというパターンなのだろう。

成長の手段だったアウフヘーベンが目的に変わった時、楽しく強くなれる。

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