スマートフォンを捨てた話

「インターネットは地獄だ!地獄そのものだ!」と繰り出して自らの至らなさや甲斐のなさによる日々の鬱屈の責を一旦インターネットに放り投げる(とはいえインターネットは文字通りの地獄であるし、私もその業火に嬉々として薪をくべている一人である)のもすっかり板についてきたところ、どんな詭弁でもそれなりの責任を負わなければならないという道徳に気が付いて、その観念に迫られる形で、スマホを捨てたくなった。私は、1日のうち、平均8時間をスマホの画面に費やすウルトラ・ギガ・モンスター。スマホを所有してから10年余り、私の人生には、それなりに思い出が溢れていることを考えると、この1日8時間もの穴をもっと有意義な物事に昇華できていたならば、人生にはさらに思い出が溢れていたんじゃないだろうか。ついに生まれ得なかった幻の思い出(ヨットに乗ったりできたはずだ)を想像するたび、魂がずきずきと痛みだす。

魂をいたわるためにスマホを捨てなきゃならんのは明白なのだが、この令和を生きていて、そんなおこないは正気の沙汰でない。最初から持たなかったのであればいざ知らず、10年余りもウルトラ・ギガ・モンスター・ソフトバンク家族割として過ごしてきた私の身体にとって、スマホは寄生獣のようなもの、切っても切り離せぬ、物理的な関係なのだ。ウンザリして川に投げ捨てようとするたび、非通知から電話がかかってきて、なぜ人質に取られているのか分からない「香取慎吾がどうなってもいいんだな」という脅迫が寄せられ、泣く泣くポケットにしまいこむ、いつもいつも、この繰り返しであった。

だが、ついに、転機となる出来事が訪れる。スマートフォンが故障したのである。画面を開けば見えない指が現れ、いたるところを連打し、とてもじゃないが使えたものではない。それどころか、SUUMOを開いて勝手に内見予約を取り付けてしまう始末。人に迷惑のかかる壊れ方。もう、電源を切っておくより、他にどうしようもなかったのだ。こうしてスマホが自ら壊れてくれたのは、天の思し召しに他ならぬ筈。もしくは、捨てたい捨てたいいなくなってくれと願われながら1日8時間使われていたスマホの堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。何にしても、念願であった、ズボンの右ポケットに何も入れない生活が始まった。

しかし困った事ばかりである。何よりも辛いのが、外で音楽を聞けない事。俺は家から1分のコンビニに行くのでも、音楽を聞かなきゃ気が済まない。音楽が特別好きというよりは、外界の音にわざわざ耳を傾ける義理もないと思っていたまでであり、外界と耳が繋がっている感覚を延々と味わわなければならないのは苦痛である。スマホを絶って、視界のひらけていく感じに心が躍ったりもしながら、音は本当にどうでもいい。つまらない。街の雑踏に耳を傾けてみよう、とか思えるほど心に余裕は無い。情緒や感傷なんかより、爆音の音楽で無理やり頭の中を埋めるくらいしなきゃ生きていけない。不安に効くのは上書きだけ。だから、スマホを捨てた今、音楽以外で頭を埋めなくちゃならないわけで、そうなると、食洗器の仕組みとか、茶碗蒸しの作り方とか、毒にも薬にもならない、一生自分に関係のないようなことを目いっぱい考えなくちゃならない。しかし、食洗器や茶碗蒸しごときが俺に巣食う不安に太刀打ちできるわけもない。そもそも音楽だって太刀打ちできていたわけではない。俺のすべてのアクティビティは、不安を上書きする為にあるといっても過言ではない。不安を一旦上書きできている時間を楽しいと呼んでいる。不安は雪だるま式に大きくなっていく。不安が減少するというのはシステム上ありえない。近いうち逃げきれなくなるだろうから、不安の話はまたその時にしよう。

スマホが無くて困ることは他にも多々ある。方向音痴が過ぎて東西南北は人それぞれだと考えている私にとって、Googleマップが使えないのは致命的である。つい最近も、知らない場所で行われている会に合流するために秋葉原の街を数十分ウロウロしたし、行きたい居酒屋の場所が分からなくなってノートパソコンを片手にフリーWiFiを探しながら高円寺の駅前をウロウロすることもあった。すれ違う人たちに、「もしかしてあいつ、ニコ生をやっているのか……?」と思われたに違いない。

電車に乗っているときに、どこを見てりゃいいのか分からない。車窓を眺めていればそれなりに面白いのだが、乗車率の高い車両だとなかなかそうもいかない。別に好きにしてりゃいいだろと自分でも思うのだが、俺がスマホを持っていたとき、電車で、スマホも見ず、イヤホンもつけず、ただぼうっとしている人が怖かった。今、俺は、かつて畏怖していた存在と、同じ姿をしている……という自意識が働いたらおしまい。舌の位置を気にし始めたら止まらないのと同じで、どんな表情で、どんな姿勢でいても、風景として溶け込むことができない。こういうときに「お前のことなんて誰も見てねえよ」と言ってくる奴がキライ。見てるから。俺は見るし。人は結構自分のことを見てるよ。絶対そうだと思う。過剰なくらいの自意識は俺、必要だと思うよ。痛覚と同じだよ。

じゃあスマホを失って良かった事は何だろう。何ひとつない。誤解のないように言っておくと、俺は別に、文明の利便がすべてをつまらなくしているとか、そんな思想はまったくない。便利になるならそれに越したことはない。ただ、手段であるべきのスマホが、1日に8時間を捧げるほどの目的となってしまうのが耐えられないと考えるだけだから、この世からスマホのすべてが消え去るというならまだしも、自分だけが持たないのはひたすらに苦痛をもたらすだけだ。俺と連絡が取れないことで、周りにも迷惑をかけてしまう。あと、これは情けなくて言いたくないのだが、スマホを見ない代わりに、家でパソコンをたくさん見ている。とんだマヌケがいたものである。

おじいさんみたいなことを言いたくはないが、スマホを持たずに外に出ると、マジで全員スマホを見ていて、正直、気持ちの良い姿とは到底言えるわけもない。ハッキリ気味が悪い。とはいえ、この現象から抜け出せた、という喜びは、逆張りによる優越感そのものでしかないのも事実だ。それが何にあてられようと、時間はあくまでも平等に進んでいる。スマホを失えば、身体が洗われて、不安が消えて、感性が敏感になって、生活習慣も肌の荒れも解決するだろうと思い込んでいたのが間違いであった。戦うべきは時間だ。時間と戦わねばならぬ。スマホというボスを倒し、ダンジョンを攻略したと思ったら、そこは時間という強大な敵の体内であったのだ。それならば、時間を倒し、永遠に生きるだけ。二度とスマホは持たない。持つかもしれないし。永遠もの時間があれば考えも変わるだろう。

2024.2.21


……これが、およそ5ヵ月前に書いた文章であるが、現在の私は、永遠を待たずして、スマホを再び使用している。言い訳をさせてもらうならば、なにも、スマホのない生活に限界を迎えたというわけではない。半年間もスマホなしで生活していたのだ。最後まで行くつもりだった。ただ、スマホの修理パックに月額料金を払い続けてきた悔しさから、思わず修理をしてしまったのだ。スマホなど必要はないと分かったのに、また所持をしてしまった。修理をするだけして、すぐにガラケーに替えようと考えていたのだが、どうも手から離れてくれないようだ。俺のスマホの修理を担当したアップルストアのスタッフが、背面に粘着テープでも貼りつけたに違いない……。

スマホを手に入れたことで、私は再び怠惰に、傲慢に、そして邪悪になった。ネットを通じて人とコミュニケーションを取ろうというのならばともかく、そんなものを見てどうする?というようなページばかりを渡り歩いてしまう。芸能人の不倫歴や、シャンクス双子説が一体なんの役に立つのだろう。しっかり無駄だと理解しながら、それでも私はそのページを夢中で読み込んでしまう。IPhoneが、一日平均何時間スマホを見ていたか、毎週統計を出してくれる。6時間半見ているそうだ。スマホを捨てる直前の、平均8時間という数字よりはマシだが、一度なくして、もう必要がないとハッキリ認識したうえで、6時間と30分も画面を見ている。人間は、悪魔に敗北するようにできている。悪魔に勝利する、ごく一部の選ばれし人間が、悪魔以外のすべてにも勝利する。なるほど、ごく単純なハナシである。

これまでは私の不安を上書きしてくれていたスマホだが、今になってみると、私の不安をさらに増やすばかりになっている。それは時間についての不安だ。時間は次々と目減りしてゆく。今は2024年7月23日の19時12分だが、もうすぐ2024年7月23日の19時12分は無くなり、次には2024年7月23日の19時13分が無くなる。時間は目に見えてしまう。目盛りが下降してゆく。私の命は永遠でなく、人類も永遠でなければ、地球だって永遠ではないのだ。増えてゆくものなどありはしない。すべてのものは減ってゆく。その中で最も重要なのが、私の命、私の時間である。決して修理パックの月額料金ではない。

あのときどうしてアップルストアに行き、修理を頼んでしまったのか。どうして、「できるだけ粉々にしてください」と頼まなかったのか。もちろんスマホに助けられることだって多々あるが、もうそんな話をするのはやめよう。スマホは敵だとしっかり認識せねばならぬ。これまで心強い味方だったウルトラ・ギガ・モンスターは今、俺の前に立ちはだかっている。


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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