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ロックンロールオリンピックとBOOWYと氷室京介と〔前編〕

ロックンロールオリンピックは、宮城県柴田郡村田町菅生にあるスポーツランドSUGOにて、1981年から1994年まで毎年夏に開催された野外ロックフェスティバルである。
BOOWYは、1985年から1987年まで連続3回出場した。解散後は、氷室京介1990年に、高橋まこと1990年1994年に、それぞれ自身のバンドで出場した。

ロクオリにおけるBOOWY秘話は、2年くらい前に別の話で少しだけ触れたことがあるが、同イベントをプロデュースされていたフライングハウスの社長・斎藤良氏に直接お話を伺ったという方が、簡潔明瞭に『mixi日記』(以下、『日記』)に書かれている。
私が書こうとしているのは、話の流れ自体はこの『日記』に書かれているお話とさしたる違いはありません。こちらの『日記』に私が勝手に補足したというか、『日記』の内容を裏づける資料をもとに、私なりにBOOWYや氷室氏が出演した際のロクオリについてまとめただけの備忘録。なので、『日記』の内容を既にご存じの方は、敢えて以下に進む必要はないかと。
『日記』の方をお読みいただければ、重要なことは大体書いてあるので。
『日記』はググっていただければ、すぐに見つかります。(個人の日記、ブログに対する無断リンクはどうにも抵抗があるので、こちらに直接URLを貼り付けることはいたしません。こうやってご紹介・引用してしまえば結果は同じなのかもしれませんが。)

今回私がロクオリを取り上げようと思ったのは、氷室京介ソロデビュー35周年のアニバーサリーイヤーを記念して、何か氷室氏関連の話を……と考えた際に思い出したのが、1990年に氷室氏が出場した話(『日記』では「BOOWY秘話のオマケ」の話)に関連するちょっとしたエピソードだったから。これを書くのであれば、前段階としてBOOWYとロクオリの関わりについても触れねばなるまいと考えた次第。

調子に乗ってどうでもいいニッチな話を色々盛り込んでいったら、そこそこなボリュームになってしまいまして。氷室氏の出場から丁度33年である2023年8月12日公開を目指して頑張っていたのですが、ちょっと間に合わず……。でも何かしらやれればということで、ひとまず本日は1985年1986年の話のみ公開します。肝心の1990年の話はないんかい!!っと思わずセルフツッコミ。
本題であるこちらと1987年の話は、なるべく間を置かず、8月末~9月はじめ頃に公開できれば(希望)。

では、相変わらずのグダグダ長文ですが、お時間に余裕がありましたら、暫しお付き合いのほどを。


【R&Rオリンピック出場まで】

ロックンロールオリンピックがスタートしたのは1981年
このイベントは、東北ではロック系のイベントに人が集まらない!という状況を斎藤良氏(フライングハウス社長)が憂慮し、働く青少年層のための年に1度のお祭りとして企画された。

アマチュアの普及活動を10年以上やってきて、その後ハウンドドッグを皮切りに東北ツアーをやったり、仙台でのロック系のイベントを行ってきたんだけど、なかなか人が集まらない。けど、ロック人口が減っている訳ではないの。で原因がなんだろう?って考えたんだけど、やっぱり就職して仕事持っちゃうと仙台では、6時半開演のコンサートには地理的にも時間的にも行けないの。で、僕はロックはファッションではなく若者の生きざまだと思っているから、本当はそういう働らく青少年に見に来て欲しいと思ってるの。オリンピックは彼らのための年に一度のお祭りにしたいんだよね。で、このコンサートを見たら、来年まで何も見なくても我慢して仕事が出来る、そういうイベントにしたいの。そのためにも出演バンドは若くて元気のいい将来楽しみなバンドを集めました。半パなバンドはひとつもないよ!郊外の山奥までミュージシャンもファンも同じ道を同じ目的で集まるところに熱いものがあると思わない?どこからでもクルマを飛ばして来て欲しいね。オリンピックは、半年に一度東京で仕込んでそのまま仙台にもってくるメジャーなアーティストのコンサートとも違うし、テレビでしょっ中観れるような場面も勿論ない。もうどこでも観れないイベントです。アーティストが観客と一体になって真夏の太陽の下で同じ汗をかく、コレ古代ギリシャのオリンピック精神にもつながることじゃない?「ロックは精神(スピリット)だ」なーんちゃって。(※1  P2-3)

当時フライングハウス所属だったハウンドドッグの大友康平氏プロデュースで始まったこのイベントの第1回は、ハウンドドッグ、RCサクセション、ARBの3バンドが出場。
ハウンドドッグの事務所移籍により、2回でプロデューサーがいなくなるという事態に陥ったものの、ロクオリ自体は「年に一度のロック天国」として存続し、徐々に動員を伸ばしていった。(※2)

そんな東北有数の野外ロックフェスティバルにBOOWYが初出場したのは1985年
前出の『日記』によると、最初は1984年に高橋氏を通じて同イベントへの出場を打診されたとのこと。しかしながら、その年の出場者は既に決定済みで、BOOWYの方も鳴かず飛ばず。しかもレコード会社との契約も打ち切られた頃。結局その年の出場は叶わなかったが、その年の暮れにBOOWYのメンバーと会って意気投合した斎藤氏が1985年の出場を快諾
その際、メンバーから「どうせ出してくれるなら3回出して欲しい。あと10回目にも必ず出して」と言われ、いつまで続くかわからないと笑いながらも、プロデューサーの斎藤良氏が出場を約束したのが、同イベントに3回連続BOOWYが出場した経緯、だそうで。

そもそも、何故高橋氏を通じて出演交渉がなされたかというと、高橋氏が、仙台のアマバン時代に斎藤氏と付き合いがあったから。よく斎藤氏宅へタダ飯を食らいに行くなど、大変お世話になっていたそう。

高橋氏は福島県福島市出身。
福島高校卒業後、内装関係の会社に就職する一方で、グレープジャムというバンドを結成。昼は絨毯敷やクロス張り、夜はバンドマン、休日はコンサートやイベントの参加という生活を続けていた。
錚々たるミュージシャンらが出演したイベント「ワンステップフェスティバル」にも同バンドで参加している。

そんなサラリーマンとバンドマンの2足のわらじ生活を3年間続けた後、高橋氏は福島を離れて仙台へ移住。フュージョン・バンド「暗剣殺」を結成し、第1回ロックジャム(1976年)では優秀賞(御本人は「三等賞ぐらい獲ったのかな」との言で、自伝にもそう書かれているが、「Easy On」には「実は優秀賞」とのルビが振られていた)を獲得する。
斎藤氏とはこの頃からの付き合いで、斎藤氏曰く、当時の高橋氏は「仙台アマバンシーンのムードメーカー」。八戸で行われた第1回ロックジャムでは、自ら応援団長をかって出て、バスの中では大騒ぎだったとのエピソードも。(※3)(※4)

そんながBOOWYの出場に繋がったとされるが、確かに、フライングハウスが発行する「Easy On」では、他のメンバーに先駆けて高橋氏の単独インタビュー(※3)を行ったり、「“東北の誇り”高橋まこと氏」と呼んだりなど、高橋氏贔屓な箇所が随所に見られる。

- なる程ね。さて、“東北の誇り”高橋まこと氏との出会いを話していただきたいんですが?
氷室 “東北の誇り”(笑)。えーと、まことさんと会ったのは今から5年前かな、あの頃ドラムが仮である人に頼んでいて、その人が忙しくなっちゃって、でオーディションしたんです。その時に来たのがまことさんなんです。第一印象は“派手な”っていうか、変なオジサンだなって(笑)。
- まことさんてしょっちゅうこちらに帰って来て、オフの時のくだけたまことさんを知ってるんですよ。ところが写真で見るとえらく格好つけてる訳、僕らから見ると、なんか“ロック界の中畑”っていうか。
氷室 (爆笑)、そりゃいいや。ま、彼も故郷に錦を飾りたいだろうし、僕らもビシッとキメますから、オリンピック期待してて下さい。(※1 P5)

BOOWY
ロックンロール・スピリットあふれ、ポップでエネルギッシュなサウンドで、東京周辺ではここ半年あまりの間に急速な勢いで人気を呼んでいる期待株
仙台では、東京とは別の意味で盛り上がっている。Drの高橋まことが福島出身の仙台育ちで、仙台には旧知の友が沢山いる。今年の正月には“勝ち抜きバンド合戦”(ヤマハ仙台店主催のバンドコンテスト)の審査員で帰郷、ひたすらカッコイイというBOOWYのイメージとは一味違う、大らかであたたかい高橋まこと像を定着させた。
6月21日にはベルリン録音の東芝EMI移籍第一弾「BOOWY」を発表、ポップさにもタイトさにも一層の磨きがかかり、いよいよ時代を掴んだ感じ。
尚、このアルバム、氷室君の地元高崎の他に、四国で!発表以来一位を続けている。(※5 P8)

好評のうちに進められているBOOWYのビデオ・コンサートの最終日は8月20日。福島のポニー&クライドで午後2時から行われる。福島はDrの高橋マコト先生の郷里であり、当日は先生もご出席なさる予定。(※5 P8)

これらはほんの一例。
「Easy On」では、他のメンバーを差し置いて高橋氏が度々登場しており、こういったところにも斎藤氏と高橋氏との近しい関係性が見て取れる。
高橋氏も、BOOWY初出場前のインタビューで「俺オリンピックって本当に出たかったんだよね」と語っている(※3)。また、斎藤氏の事務所スタッフが新宿ロフトを訪れた際に、ちょうど居合わせた高橋氏と飲んで意気投合、それをきっかけに高橋氏が斎藤氏に再び連絡を取ってBOOWY出演を売り込んだ、という話もある。これらの状況から、高橋氏を通じてプロデューサーの斎藤氏へ同イベントへの出演を打診して、それが翌年以降のBOOWY出演に繋がったという話は信憑性が高いのではないか。
(当時はまだ)ブッキングをしたこともない、海のものとも山のものともつかぬバンドからの売り込みなぞ、知人でもなければろくに話も聞いてもらえないだろう。BOOWの出演交渉がけんもほろろに扱われなかったのは、このバンドに高橋氏がいたおかげだったと思われる。

また、『日記』によると、「1984年の年末にBOOWYのメンバーと斎藤氏が直接会って意気投合。翌年の出演を約束」とのことであるが、実際に1984年12月にBOOWYは仙台でライブを行っており、そのブッキングを行ったのがフライングハウスだったようだ。

<THE MEMORY OF R&R OLYMPIC ‘86>
フライングハウスがBOOWYを初めてブッキングしたのは’84年の12月、これは凄い!と誰もが確信したが、その数は200名だった。明けて‘85年のオリンピックに出場、BOOWYの人気は爆発した。’86年の大合唱の凄かったこと!! 僕らは新しい才能を一早く紹介し、それらが花開いていくことを何よりの喜びとします。そしてその過程でバンドがオリンピックに関わってくれることにいつも感謝しています。(※6) 

BOOWYのライブを実際に目の当たりにして、「これなら」ということで出場を快諾したのだろう。

【第5回 R&Rオリンピック(1985年)】

- ①イベントデータ -

〔Rock’n’roll Olympic’85〕
スポーツランドSUGO SP広場
1985年8月11日(日)
晴れ、のち小雨のち回復
最高気温 28.7度C
開場 8時31分
開演 10時
終演 21時
動員 4,800名 
(※9 P2)

〔出演バンド(出演順・予定時刻)〕
10:00  子供ばんど
10:50  爆風スランプ
11:45  A・ストラッター
12:00  亜利沙
12:15  NEVER
12:35  SMOKY
12:55  ハートビーツ
13:25  アクシデンツ
13:45  山善&Midnight Special
14:15  エコーズ
14:45  BOOWY
15:35  ストリートスライダーズ
16:30  浜田麻里
17:25  VOW WOW
18:15  ルースターズ
19:05  シーナ&ザ・ロケット 
(※5 P3-11)

(注)上記の時刻は予定時刻。「結局終わったのは1時間遅れで9時」とするライブレポ(※18 P87)もあることから、実際は予定時刻よりも押したものと思われる。

- ②リハと本番 -

メンバーからの逆オファーが実り、BOOWY初登場となったのは、1985年の第5回ロックンロールオリンピック
前日の10日には、リハーサルが行われたが、BOOWYは順番が来てもまだ姿を見せず。予定時間でリハを強制終了させられたバンドから「ちぇーっ、これならもっとリハーサルやらせてくれればいいのに!」というブーイングも飛んだという。結局1時間20分遅れでBOOWYのリハーサルがスタートした。

予定より1時間20分遅れてBOOWYのリハが始まる。ステージから30メートルぐらいにのびたPA卓までの花道を、氷室くんと布袋くんが代わるがわる何度も往復しながらステージの距離感を測ろうとしている。さすがステージングにうるさい彼らならでは。(※7 P52)

翌11日の本番では、初出場のBOOWYの出番はイベント中盤。全16組(アマバン含む)の11番目であった。(前出の『日記』では「12バンド中7番目」とあるが、これはアマバンを除いた数字)
まだ十分に日が高い時分とはいえ、最高気温が28.7度Cなので、そこまでは暑くなかったかも。
爆風スランプあたりでちょっと曇ってきて、最後まで雨が降ったりやんだりしていたとの報告もあるので、真夏の日差しがガンガン照りつける中でのステージではなかったと思われる。(※18 P86)

早い時間に出番を迎えたことについてはメンバーも内心悔しく思っていたようだ。高橋氏は「’85年は出番が早かったじゃない。終わってから見た夕暮れが奇麗でさあ、『来年は夕陽をものにしたい』って思ったね、やはり上昇志向なくしてはね」と当時を振り返っている。(※8)

さて、第5回ロクオリのライブレポによると、この年のBOOWYは「盛りあがり№1」との評価であった。(※9  P8)
前出の『日記』においても「観客がいきなり異様な興奮状態」「この年に出た12バンドの中で一番の盛り上がり」「BOOWYのブレイクを確信」と書かれており、白熱したステージに観客が相当熱狂したことが窺える。

……が、そのではメンバーに思わぬアクシデントがあったようで。

- ③盛りあがりのその裏で -

バックステージで控えるBOOWY。「対抗意識?そんなのないよ。なぜないか、それは僕らのステージを観てもらえばわかります!」と貫禄を見せる布袋くん。シュミのカメラを首からぶら下げて「こないだの写真(日比谷野音のアトミック・カフェで撮影)、すごくよかった。お客さん、みんなすごくいい顔してて」ワイワイと元気な他の3人をシリ目になぜか氷室くん、イスに座って暗い顔。どーしたの?「……お腹痛くて……」ムムム……仙台のキッズをノセる自信は?布袋「大アリ!もうビンビン!!」氷室「……(お腹を抑えながら苦しそうにうなずく)」(※7 P56)

「盛りあがり№1」バンドのフロント殿、出演直前にまさかの体調不良。(笑)

いや、笑い事ではないけれども!弱っている姿を他人に極力見せたがらない氷室氏が(この頃はまだそうでもなかった可能性もあるけど)痛がっているなんてどんだけー?!と心配になるが、翌年、同イベント出演に際してのインタビューでその原因について言及されていた。

- 去年はどうでした?
氷室  体調悪くておなかがすごい痛かったの、前の日になんか変なもん食べたみたい、みんな痛いって言ってた。
まこと  俺だけだったなあ、何でもなかったの。
氷室  あっ、そうだったね(笑)。野生人まことだから。
布袋  東北の水が合ってる(笑)。(※10)

えっとぉ、食あたりですか?
8月中旬ですしねー。食べ物の足が早い時期ですしねー。うん、イベント前の食事には十分気をつけましょうね。

なお、氷室氏だけではなく布袋氏や松井氏にも腹痛があったそうですが、御二人の症状は軽くて(或いはすぐ回復して)、氷室氏だけ重かったのでしょうか。
そして唯一無事だった高橋氏。さすが、松井氏から腐りかけの糸を引いたカレーを供されても、「いつもよりウメーなこれ!」と言ってバクバク食べたという逸話の持ち主。強靱な消化器官をお持ちで。(笑)

それはそれとして、そんなバッド・コンディションをものともせず、熱いステージを繰り広げたこの年のBOOWY。
氷室氏の不調を報じた雑誌のライブレポでも「初めて彼らを観る観客も多く、ステージの刺激の強さに呆然という感じ。体調のせいか氷室独特の毒の強さが若干ひっこんでいたように思うが、相変わらずの見事な演奏カッコいいステージングで堂々と実力を見せつけて、疾風のようなライブを終えた。」と絶賛で(※7 P56)、十分に東北の観客を魅せたようだ。

ちなみに、翌年の第6回ロクオリでは、「布袋のギターのコンディションが今一歩で、ベストな演奏ができなかったが、ヴォーカルの氷室の実力はすごい」との評が残っており(※19)、氷室氏は無事、翌年に体調不良の雪辱を果たせた模様。

- ④イベント前後のこぼれ話 -

イベントの後のインタビューでは、他の出演者とのステージ外における交流について色々語られている。(※11)(※12 P15)

高橋氏曰く。

  • 出演者はくぬぎ山荘(SUGO施設内にあったホテル。残念ながら2005年1月末に閉館)に宿泊。

  • イベント前夜から他バンドのメンバー達(高橋氏が名前を出していたのは、爆風スランプの「サンちゃん達」、エコーズ、スライダーズのジェイムス氏、ズズ氏)とを飲んで夜を徹して大盛り上がり。

  • 酒があまり飲めない辻仁成氏は途中離脱したが、高橋氏は他の連中と朝まで飲み続ける

  • ステージに立った時は半分まだ二日酔の状態だった。ステージで汗をかいて3曲目くらいで漸く酒が抜けた

  • イベント後の打ち上げパーティ終了後、高橋氏はVOW WOWのギタリスト山本恭司氏とビリヤードに興ずる。

  • その後、ハートビーツのシャイ氏から飲みに誘われ、「東京の音楽誌のネエちゃん」の部屋で大騒ぎ

  • カラオケで高橋氏は「月の法善寺横丁」を歌う。

  • 氷室氏は他数人と廊下で怪談話を始める。

  • そのうちみんなそのへんのに転がって寝てしまう。

  • いろんなバンドと知り合いになれて、すっかり打ち解けた

いや~これぞ青春!という感じですね。少々とうがたちすぎな気もしますが(笑)。
氷室氏も打ち上げ後には体調が回復していたようで何より。
……にしても、前日から当日朝まで飲みつづけ、且つ他のメンバーは腹痛で苦しむ中一人だけ無事で、さらにはイベント終了後も浴びるように酒を飲んたご様子の高橋氏、メンバー最高齢なのに一番お元気ではないでしょうか。お酒が苦手な氷室氏が一番症状が重かったのは、アルコール消毒が足りなかったのかも(笑)。というのは冗談として、お酒が飲めない分、他のものを食べるしかなかったのかしら。

なお、イベント終了後の高橋氏は、斎藤社長のお宅に2日間お世話になった後、昔のバンドメンバーのお宅にも泊まり歩く渡り鳥生活を満喫。
ちなみに、その頃他のメンバーは、「布袋は吉川と山下久美子のレコーディング終えて、泉谷さんのバックは気に入られてまだやってんのかな、なんか吉川と飲み歩いてるみたい。氷室はこの前新人の何てったっけかな……、奥田圭子とかって子の曲書いた。松井はオレとマージャンしてる(笑)。」(※11)

「布袋氏が吉川と飲み歩いている」という一文を目にして、そういえば1985年末に行われたアンケートで布袋氏が「好きなアーティスト」として吉川氏の名を挙げていたな、と思い出したり。本当に布袋氏ってその時のお気に入りがとてもわかりやすい。(苦笑)


【第6回 R&Rオリンピック(1986年)】

- ①イベントデータ -

〔Rock’n’roll Olympic’86〕
宮城県スポーツランドSUGO SP広場
1986年8月10日(日)
開場 午前8時30分
開演 午前10時
終演 午後9時30分
天気 曇りのち霧
動員 5,000名 
(※13)

〔出演バンド(出演順)〕
10:00  80‘s EXPRESS
10:15  AREA
10:35  ルシア
10:50  阿Q
11:15  ローザ・ルクセンブルグ
12:05  アップビート
12:50  アクシデンツ
13:15  ラフィンノーズ
14:00  ルースターズ
14:40  エコーズ
15:40  バブルガム・ブラザーズ
16:40  遠藤みちろう
17:20  ストリートスライダーズ
18:20  ARB
19:20  BOOWY
20:00  Sheena & Rokkets 
(※13 P2-17)

(注)時刻は「R&Rオリンピック '86密着取材レポート」の時刻に準拠。「ROCK'N'ROLL OLYMPIC '86 公式認定プログラム」記載の予定時刻とは異なる。

- ②本番当日 -

1986年夏、BOOWYは積極的にロックフェス、イベントなどに参加した。
音楽雑誌各誌に掲載されているライブレポを読むと、彼らのステージはいずれも大きな評判を呼んだ模様。
ロクオリの2日前、8月8日に秋田で開催された「AKITA ROCK CITY CARNIVAL ‘86」のライブレポでも、BOOWYは「この夏、各地で最も熱狂的に迎えられたトリ中のトリ。この1年での成長ぶりは目ざましく、大観衆を思いのままに操るライブは王者のカンロク十分」と紹介され、「BOOWYが登場したら今までの出演バンドがすべて前座と化してしまったといっても過言ではないくらい、お客の盛り上がりにももの凄いものがありました」と。(※14 P80)

そんな勢いのある夏のイベントツアーの最後を飾ったのがこの「ROCK’N’ROLL OLYMPIC ‘86」である。
二度目の出演となったこのイベントでのBOOWYの出番は、16組中の15番目、トリ前であった。

出番前、高橋氏はご両親(?)と一緒に花道左側付近でバブルガム・ブラザーズのステージを、また、アップビートのメンバーと一緒に舞台袖でストリートスライダーズのステージを鑑賞していたとのこと。(※13 P10、12)

イベントは大いに盛り上がり、BOOWYが登場する頃には観客のボルテージは最高潮に達していた。ガンガン押しまくって、みんなで大合唱。(※13 P14)
前出の『日記』においても「(彼らが登場した瞬間)去年の比ではない。もう押し合いへしあいの大騒ぎ」と書かれていたほど。
他のライブレポでも、「やっぱりここでも(秋田同様)野原をディスコに変えてしまったBOOWY。その安定した実力と、腰に来るビート、ワクワクするような楽しさ――並ぶ者はいないように思える」などの記述があり(※14 P50)、会場が興奮の坩堝と化した様子が伝わってくる。
その辺りを含め、本番の様子は、GIGS BOXに収録されている映像を観て、ご確認いただければ。

BOOWYのステージ前に、何度注意しても聞かずにドンドン押してくる観客に対し、DJのポーキー氏がキツめの注意をして、結果的に混乱は起きなかったとあるが(※13 P16)、大きな事故がなくて本当に良かった……。(『日記』によると、酸欠状態で運ばれる人もいたようだが。)
ライブ映像でも、前列で必死に柵を押さえているスタッフの姿が見て取れる。スタッフの皆様、お仕事本当にお疲れ様です。

余談だが、映像を観て「野外なのに随分スモークが焚かれているなぁ」と呑気に思っていたのだが、BOOWYの一つ前の出番だったARBのレポで「夜がふけてきて、霧が深くなってきた」との記述があった。
どうやらあれは、天然のスモークらしい。さすが山奥。

なお、その年の初めに結婚したばかりの布袋氏。
BOOWYのステージを観に、布袋氏の妻(当時)である山下氏来場していた。この頃山下氏は、BOOWYの地方公演先で度々目撃されているし、ご自身でも公言している。また、布袋氏も山下氏のライブに時折ゲストとして登場していた。2人とも僅かな時間といえども離れがたかったのだろうか。
彼女は最初後方で、そのうち観客に混じってステージに近づいていき、最後は舞台袖で彼らを見守っていたという。そんな彼女を演奏終了後の布袋氏は抱きしめながらステージを去って行ったそう。(※13 P14)
うん。熱々ですね。

ついでに。
氷室氏がMCで「俺たちは仙台を第二の故郷だと思っている」と言ってくれて嬉しかったというファンの声が紹介されていて、彼の第二の故郷は一体いくつあるのだろう(笑)。……と思っていたら、他のページや翌年の「HISTORY OF R&R OLYMPIC」という振り返り企画では、「仙台は第2の故郷です」は辻仁成氏の言葉として紹介されておりました。
どっちが正しいんだ-!
それともどっちも正しいのか……?ま、いずれにせよ、ミュージシャンによくあるリップサービスということで。(笑)

ちなみに、来年のロックンロールオリンピックに出場して欲しいバンドアンケートで、BOOWYはぶっちぎりの1位でございました。……得票数26票だけどね。(※15 P9)

- ③盛り上げ企画など -

8月の本番に先立ち、7月中旬に百数名のスタッフを集めて、ロックンロールオリンピック総決起集会が開催された。こちらにも忙しいスケジュールの合間を縫って、高橋氏がシークレットゲストとして登場。場を大いに湧かせた。(※12 P11、P14-15)

さらに、第6回ロックンロールオリンピックに連動して、仙台でBOOWY絡みのイベントがいくつか行われている。
一つは、仙台市民会館小ホールで開催された「ヒストリー・オブ・BOOWY」フィルムコンサート
もう一つは、日楽仙台展6Fホールで行われた「シネ・LOFTスペシャル」での「裸の24時間」上映。こちらは、言わずと知れた氷室氏らの幻の主演映画である。

ロクオリ特集ページに上映リポートが掲載されていたが、会場は氷室氏目当ての少女で埋め尽くされていたとのこと。(※12 P9、15)
少女たち、アレ、見たんだ……。
なお、再上映のリクエストが編集部に殺到したそうで、その年の12月23日にも同会場で再上映されている。(※16)

- ④余話 -

Easy On 1986年9月号「ROCK’N’ROLL OLYMPIC ‘86 公式認定プログラム」の出演バンド紹介では、プロフィールとともに、そのバンドのこぼれ話、ちょっとしたエピソードなども掲載されている。BOOWYもご多分に漏れず「ファンが知らないとっておきのニュース」として、布袋氏が山下久美子氏のニューアルバムで作曲・アレンジを手掛けていること、松井氏高橋氏の両氏がそれに参加していること、新婚の布袋氏は、山下氏の帰りが遅くなった時は茄子の味噌炒めを作って待っているなどの逸話が紹介されていた。

また、当時、氷室氏布袋氏の両氏が変名を用いて、深夜番組の音楽を担当していたとも明かされた。(※12 P9)
共作かつ変名で、とは何とも珍しい。起用の経緯が気になるところだが、この番組、第6回ロクオリが開催された1986年8月時点では、ロクオリの地元・宮城県では放送があるものの、東北6県全域では放送されていないっぽい……?関東でも放送されていない。(それほどきっちり調べていないので違っていたら申し訳ない。)
ならば東北でも一部地域のみのローカル番組かと思いきや、全国各地でポツポツ放送されていたり。が、系列局も異なるわ、放送時間も曜日もまちまちだわと、なかなかレア度高めの番組との印象。BOOWYのファン層が好んで見るような番組でもないようだし、視聴できたファンが当時どのくらいいたのだろうか。

なお、残念ながら、ライブレポや出演者インタビューの中に、前年のような打ち上げ後のバンド間交流などの逸話紹介はなかった

これで86年夏のイベントツアーを終えたBOOWYはこの後3週間のオフに入る。
高橋氏は、松井氏と一緒にそのまま仙台に残って温泉に入った。松井氏は仙台で飲み歩いていたが、高橋氏は、泊まった家の子供たちを連れてプールへ行ったり、牧場へ行ったりと「本当に遊びっぱなし!」だったという。
氷室氏は、オフ前半はデモテープ録りなどの曲作り作業でカンヅメ。その後は草津温泉へ両親を連れて行ったのだが、氷室氏に付き合って(何故か)高橋氏も一緒に草津へ行っている。昨年に引き続き、高橋氏の渡り鳥生活、再び。(笑) 
それにしても、イベント終了後の高橋氏と松井氏は、前年はマージャン、この年は温泉に酒などなど……。そんなんだったから、氷室氏から「お前らも作詞しろ!」と言われてしまうのでは(苦笑)。そのおかげで、後々発売されるBOOWYのベスト盤に彼らの作詞の曲が必ず収録され、多少なりとも著作権使用料が入ってくることになったので、何が幸いするかわからない。

その頃、布袋氏は山下氏のアルバム「1986」松岡英明氏のデビューアルバムのプロデュースに従事していた。それが終わってから、山下氏と一緒にロンドンで1週間のオフ(※17)。……で、その後に激しすぎる夫婦喧嘩で右手首を骨折した、と。
松井氏も「BEAT EMOTION」のレコーディングが終わってから具合が悪くなり、病院へ行ったら肝炎と診断されたそうで。(※15 P6)
松井氏自身は、「やたらとボーッとして疲れがドッと出て、リンパ腺が腫れて、高熱が3日ほど続いた。病院へ行くと何やら長い病名を付けられて、入院しろとまで言われた」と話している。(※17)
ホント皆様、お身体だけはどうぞ大事に

その後BOOWYは、5th アルバム「BEAT EMOTION」を11月8日に発売。念願のチャート1位を獲得した。
その約3週間前には、先の④余話でもご紹介した、BOOWYの4分の3が参加――松井氏と高橋氏がゲスト参加し、布袋氏がプロデュースした山下氏のアルバム「1986」が発売されている。こちらはチャート5位。
11月11日からは「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」もスタート。
そうして、このツアー中、12月16日に長野市民会館で行われたライブの後、布袋氏がメンバーへ解散を切り出したという。

※続きは後編で。

※前回の「氷室京介のこだわり①」の続きですが、氷室氏のソロデビュー月の7月に間に合わせようと焦って作業をしていたら、うっかり操作を誤って削除。気力が萎えました。一応、氷室氏の誕生月の10月を目標に書き直す予定ですが、後から後から付け足したいことが多分出てくると思うので、どうなることやら。

※2023/09/03 誤字等について、訂正・削除いたしました。ご指摘ありがとうございます。

【出典・参考資料】

※1 東北音楽情報誌「Easy On」 1985年8月号
※2 東北音楽情報誌「Easy On」 1990年10月号 P19
※3 東北音楽情報誌「Easy On」 1985年6月号 P1
※4 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年3月号 P4-5
※5 東北音楽情報誌「Easy On」 1985年9月号
※6 東北音楽情報誌「Easy On」 1987年9月号
※7 ROCK’N’STREET 2 1985年10月20日発行
※8 東北音楽情報誌「Easy On」 1990年8月号 P4
※9 東北音楽情報誌「Easy On」 1985年10月号
※10 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年6月号 P4-5
※11 東北音楽情報誌「Easy On」 1985年12月号 P32
※12 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年9月号
※13 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年10月号
※14 ROCK’N’STREET 4 1986年11月10日発行
※15 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年12月号
※16 東北音楽情報誌「Easy On」 1986年11月号 P10
※17 ARENA37℃ 1986年12月号 P122
※18 ARENA37℃ 1985年10月号
※19 ロッキンf 1986年10月号 P52

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