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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.18-② ~ 「SHAKE THE FAKE」を巡るあれこれ(前編?) ~

【松井常松起用に至るまで】

1曲だけ松井氏をゲストに迎えた氷室氏のアルバム「SHAKE THE FAKE」は、1994年9月26日発売。
前作「Memories Of Blue」及び先行シングル「KISS ME」でミリオン・ヒットを記録し、氷室氏のソロ活動がセールス面でもBOOWYを超えた。そこではじめて自分の音楽を追究できるところまできたというような話を氷室氏は過去何度かしている。

「自分の中から出てくる音楽への衝動をそのつど表現していければいいなと思ってて……。『Memories Of Blue』で抜けたのかもしんないな。その前はBOOWYの方が数字的にも売れてましたから。数字が関係ないと言いつつも、それを抜かないで好きなこと言うっていうのは負け犬になってしまいますからね。それは俺の美学の中にはないですから。BOOWYを抜いて、初めて自分の音楽を追究できるところにきたんでしょうね」(※1)

このアルバムが完成した当時のインタビューで、氷室氏は松井氏の起用の理由をこう語った。

今回のアルバムも、今までレコーディングって言うと、いつも対BOOWYって意識があったじゃない。でも、数字的にはひとつハードルを超えたって感じだよね。だから、今回は前作に対してのプレッシャーでしょ?そういう意味じゃプレッシャーはすごく大きかったよね、BOOWYに対するこだわりはふっきれたかな。今回1曲松井にベースを弾いてもらってるんだけど、それも自分のなかでBOOWYがふっきれたから、そろそろBOOWYのビート感を……、松井が入るとすごくBOOWYのビート感に近づくから、そういうのを1曲アルバムに入れてもいいかなって気にもなれた。だからって布袋がどっかの雑誌で言ってたようにまた4人でBOOWYをやりたいねってのとは違うんだけどね。音楽的なBOOWYのプレッシャーは、やっぱりビート感だよね。スリリングさっていう意味のビート感、あと無から東京ドームまで行ったじゃない。その時のスリリングさ、空気、緊張感かな。”それはただの青春じゃないか"って言われたこともあったけど……、そうかもしれないね。一番感受性が強くて、一番自分でも盛り上がれる時をBOOWYで過ごして、それで育ってきたわけだから、その時の自分のテンションに近づこうってのは、元々無理な話なんだよ。今でもあんなスリリングなバンドないからね。(※2)

上記のインタビューだけでは、突然の思いつきで松井氏を起用したようにも見えるかもしれない。
しかしながら、この2年近く前、前作「Memories Of Blue」を完成させた時のインタビューを読み返すと、松井氏起用は決していきなりでも思いつきでもないことがわかる。

- 『Highwe Self』の時に、新しいバンド・サウンドの構築がテーマだって言ってましたけど、それはもうテーマではない?
氷室 そうですね。それはもう変わってきてますね。アルバムの完成度としては、今までのアルバムの中で、いろんな要素が全てバランスよく配分出来てて一番いい作品ですよね。こんなの作っちゃってあとどうしようみたいなところがあるんですけど(笑)。逆にふっきれたなっていうところもありますよ。これで極めたなっていうか、今までBOOWYの影から逃げよう逃げようとしていて、つまり、そのジャストなビートから逃げようとしてたところをこれでやり尽くしたから、次はもっと素直にいこうかって思わせてくれたアルバムですよね。(※3 P13、16)

『Memories Of Blue』を作り終えて、アルバムの完成度がすごく高いし満足度も高いから、次のアルバムはもしかしたらビート系になるかも知れないし……。俺がその時々に感じることって、毎回違う。(笑)たとえば一昨日、布袋(寅泰)のライブを観てさ、“やっぱビート系の曲も演りたいな”って思ったりするわけだし……。そういうものを素直に反映していけばいいのかな?とかね。ただ、大事なのは、精神性みたいなものを必ず要所要所に入れていかないと……単にキャッチーなビート・ボーカリストに成り下がるのはイヤだよね。(※4 P12)

<『Memories Of Blue』発売時のインタビュー>
今回のアルバムを出して、これがいいと認められたら、もしかして今布袋がやってるように音楽に対するすごく素直な自分というところでBOOWYみたいな曲をまたやってもいいなという時期が来るかもしれませんね。でも決してノスタルジックなものではないと思いますよ、きっと。けっこうヘソ曲がりの姿勢は大事にしたいところですよね。レコード売り上げがあって、そこで変なことやってる人っていうイメージは追求したいところですね。(※22)

氷室氏は、BOOWYのフロントであったが故に、ソロデビュー以来、良くも悪くもBOOWYの看板を背負っていかざるを得なかった。同時に「BOOWYの氷室京介」に勝とうと自分自身と戦い続けてきた。
無論、BOOWYであったことの恩恵も十分受けていたし、表だってBOOWYの遺産を有効活用できる立場でもあった。当然、それに対する打算やら計算やらもあっただろう。
だが、傍目にはBOOWYの遺産を最も多く承継したように見えてしまうが故に、光に目が眩まされてなかなか見えにくい影の部分も一番多く、重く、真っ向から背負った。また、御本人も光の部分のみを有効活用して、影の部分は目をふさいで見ない振りをすることを良しとする性格でもなかった。

氷室氏(と高橋氏)は、独立してある意味身軽となった松井氏や布袋氏と異なり、BOOWY解散後もそのままユイ音楽工房に残っていた
また氷室氏は、レコード会社や事務所が自分をバックアップする理由の一つが、「人気絶頂で解散したバンドのボーカリストだから」「自分が金になる素材だから」だということを自覚していた。
BOOWYを解散したばかりの氷室氏にかけられたセールス的なプレッシャーについては、布袋氏も認めている。

「いや、まだまだだね。どちらかと言うと、”まだまだ俺に実験させてよ”って感じかな。レコード会社も事務所も大変だよね。まったく。『Ⅰ』は全部英語だし、『Ⅱ』は2枚組だしさ。もうちょっとね、BOOWYのあとなんだから、シャキッとしましょう!みたいなさ(笑)」
- レコード会社も事務所も、お金がかかってしょうがない…。
「もうちょっと、氷室さんみたいに、とかさ。アハハッ(笑)。逆に、ヒムロックは大変だったかもしれないよね。ソロのスタートから彼はいつもセールス的な要望を背負ってきたんだと思うしさ。俺は…全部捨てて、自分の好きなことだけをやってきたからさ」(※5)

氷室氏がそういった期待を一身に背負ってくれたおかげで、布袋氏のソロ・デビューはかなり自由に好きなことを追求することができた。ある意味、成功が義務づけられた氷室氏の活動(が稼ぎ出すお金とBOOWYブランドイメージ)を担保とすることで、布袋氏の音楽活動における「実験」がレコード会社などから許されたと言えるのかもしれない。勿論、当時の布袋氏に対する高い評価があってとのことだと思うが。(ついでに、布袋氏に言っても聞く耳持たないだろうという諦めと、下手にアプローチすると、相手を悪者にして被害者意識満載で自分の正当性をあちこちで吹聴する性格(を発揮された場合、BOOWYのブランドイメージを激しく毀損するであろうこと)も考慮されたと個人的には思っている(笑)。)

単純なセールス比較だけなら、当時もっと上のバンドもいたにも拘わらず、BOOWYは「社会現象」にまでなってしまっていた。そんなBOOWYの名声を汚さぬよう、BOOWYのフロントであった者として相応しくあるよう、「絶対に失敗できないプロジェクト」として、氷室氏のソロ・プロジェクトはスタートを切った。氷室氏は、スタッフとともに暗中模索しながら、プロジェクトの中心として、周囲の期待に応えた
ソロ活動最初のツアーについては、「BOOWYを解散してから、自分の中でソロ・プロジェクトがうまくいくように、時間もテンポよく進むように、言ってしまえばストレスを圧してでも頑張った感があった」と後に振り返っている。(※6 P15)

ソロ活動の開始が早すぎて演奏する曲が足りず、BOOWYの楽曲やカバー曲に頼らなければライブを構成できない悔しさを内に秘め、精力的に活動した。後年の氷室氏のじっくり制作に時間をかける活動ペースが氷室氏の本来望むペースだとすると、ソロになったばかりの頃の活動ペースは異常の一言。
解散したばかりの頃を振り返ったインタビューでも、BOOWYに対する氷室氏の拘りが見て取れる。

- 1枚目や2枚目のアルバムっていうのは、BOOWYとの差異化を追求していたという作り方だった?
氷室 今思うとあの頃って何か、言葉で語れる確証みたいなものが自分の中にないと不安だったんでしょうね。それなりに真剣ではあったんでしょうけど、コンセプショナルな言葉でしゃべれる何かがないとというか。BOOWYをやめた事の意味づけみたいなものが自分の中にないとどっか不安だったりしたんでしょうね。今は、それに比べるとひとつステップ・アップしてるかなっていう、自分の中に余裕がありますよね。
- それは数字的な裏づけもあったんでしょうし。
氷室 それももちろんありますね。数字がすべてとは思いませんけど、プロとして音楽を作っている以上は、やっぱり売れなくて好きなこと言ってるとただの負け犬みたいで、それは僕の美学からはそれちゃうんで、売れていて好きな事言ってるっていうスタイルを絶対に守っていたいですね。(※7 P16)

「BOOWYっていう最高のBEAT BANDを経て現在があるわけだから、当然人は俺のことをBEAT系のVOCALとして見ますよネ。今回はそのイメージをどこまで払拭できるかってことをテーマに曲作りに入った」(※8)
「BOOWYがビート系の最高峰のバンドと呼ばれていたからこそ、ビートでアピールするのではなく、ビートを外したところでメロディがどれだけ人に伝わっていくかを意識していた」
「氷室京介というボーカリストが、BOOWYというイメージから離れたところで勝負出来るか試すアルバムにしたい」(※3 P12)
このように氷室氏はこのアルバムの制作意図を話していた。
そして、この作品は、自身にとって大きな存在意義を持つアルバムだったと語る。

売れる曲とかっこいい曲が必ずしもイコールではないというのが、毎回の俺の中での不変なテーマなんだよね。いつもそこでどちらに進むべきなのかっていうところで葛藤するんだけれど。この4thアルバム『Memories Of Blue』(1993年1月7日)は、限りなくバランスが上手くとれている作品なんですよ。自分の中でかっこいいことを追求してやっているにも拘らず、一般の人たちに説得力をもつ形で着地できてるって意味でね。そんな意味では『Memories Of Blue』は自分の中で大きな存在意義を持ったアルバムです。
(中略)
『Memories Of Blue』は結果的にBOOWYの売上枚数を上回ることができたことで、自分の中で成功を感じられたアルバムですね。でも、一番このアルバムで収穫となったのはエンジニアのニール・ドーフツマンとの出会いですね。氷室京介の活動を前期、中期、後期と3つに分けるならば、中期氷室京介の入り口を作ってくれたエンジニアであるニール・ドーフツマンとの出会いは、とても大きなターニング・ポイントでした。ニールと知り合うことがなければ、今アメリカに住んでいる自分というのはたぶんなかっただろうなと。そのくらい彼との出会いが俺に影響を与えてくれています。
(※6 P19,21)

氷室氏のソロ・ファースト・アルバムは、当時の音楽雑誌を読む限り、概ね好意的に捉えられていた(一部例外あり)。同時にBOOWY路線を踏襲したといったような評価も散見される。
BOOWYの元メンバーであった松井氏も、氷室氏のソロ・デビュー作「ANGEL」について、「例えば、彼が作った『わがままジュリエット』とか『CLOUDY HEART』といった彼独特のマイナーなメロディと、それに合ったサウンドアレンジをさらに推し進めて、彼の音楽世界を明確にした曲を出すんじゃないかと思っていたから」「4人ではできないことをやる、それがソロで活動することだと思っていたから」「あの曲は意外だった」との感想を残している。(※9)

とはいうものの、ソロ・ファースト・アルバム「FLOWERS for ALGERNON」には、「DEAR ALGERNON」や「独りファシズム」のように、BOOWYというバンドであったなら世に出なかったであろう作品もあった。しかしながら、「BOOWYとの差異を意図的に作り出そうとしなかった」という評価もあったように、元BOOWYの看板を背負ったヴォーカリストとして、解散で気持ちの持って行き場を失ったファンの受け皿にもなりうる作品を作った。ソロデビューの僅か4日後(ソロ・ファースト・アルバムの発売前)に始まった、ソロ・ファースト・ツアー「KING OF ROCK SHOW "DON' T KNOCK THE ROCK"」でも、BOOWYの楽曲を何曲か演った。

そうやって周囲の期待にも応えた音楽活動をしつつも、そのでBOOWYではできなかったことをやらなければ、でなければどうして解散したんだ、と葛藤に苦しんだ。
そんな葛藤の中での紆余曲折もあったのか、ソロ2作目の「NEO FASCIO」はBOOWYとはかなり毛色が違うコンセプチュアルなアルバムとなっている。
この時、氷室氏は
「商業音楽をやることの幸せだけに甘んじたくない」(※10 P8)
「解散する1年くらい前から、このままポップな音楽ばかり作ってて、適当にのらりくらりと世の中をすり抜けていくのでいいのかなと思い始めていた」
「もっと痛い音楽を自分がそろそろやってもいいんじゃないかと思った」(※11 P198)
「キャッチーなアルバムを作ることはBOOWYである程度極めたと思う。それを今やってもしょうがない」(※12)
等の言葉を残している。

自分がそれまでやってきたBOOWYに本当の意味で勝つために、誠心誠意自分をバックアップしてくれているスタッフに報いるために、「解散したら、氷室なんて2年で潰れる」と見くびっていた業界の奴らを見返すために、ずっと闘ってきた。

氷室氏は、初のソロアルバム"FLOWERS for ALGERNON"を受けたツアーのファイナルを東京ドームでやることを強く望んだと言う。それは、BOOWYとしての最後のステージ“LAST GIGS”で放った「今度は一人一人別々で必ずここで会おうぜ」との「約束」を果たすため。
その打ち上げでは、氷室氏の顔は涙でグシャグシャになっていたと、BOOWYライターでもあった星野氏は語っている。そうして、氷室氏が解散後に進んできた道の困難さに漸く気付いた、と。

氷室のグシャグシャになった顔が何度もチラつく中で、やっと私はソロになってからの彼は決して”BOOWYで得た名声とハッタリで“的に楽ではなかったのではないか、と気づき始めた。カッコイイ奴は決してそんなことを口にしないけど、彼にだってプレッシャーはあったはずだ。手放すものがある分だけ、その時点で背負わなきゃいけないものもある。そして、その第一段階の荷物は確実にこのツアーのファイナルで片をつけた。実際に彼と話しをしたわけではないが、自分を信頼してくれているスタッフと第一関門を克服した充実感感動を、彼はあの夜初めて味わったのではないだろうか。きっと見えていたんだ。スタート・ラインに立った時から、目の前のコースは100m走の平面ではなくて飛び越えなきゃいけない高い壁がいくつも並ぶ障害物競走のコースだってことを。そして、彼は自分が歌いたい歌を歌う為に、正面きって進んできた。(※13)

そうやって一つひとつの壁をクリアしながら頑張っていく過程で、楽曲のクリエイティビティや完成度よりもパブリックイメージの方が先行してしまい、「このままでいいのか?」と悩むこともあったそうだ。
また「なんでそんなに評価されるのだろうか」「自分の音楽がどれだけ人の深いところに響いているのか」と感じるようになったという。そうして、これだったら売れないだろうという曲をシングルカットするという実験をしてみたり、その反動で、「これだけやったらどれだけ売れるのか」を「KISS ME」で試してみたり……。(※6 P13-21)
そんな苦悩と試行錯誤の過程で作りあげたアルバムが「Memories Of Blue」だった。

そうしてこのアルバムと、先行シングルとなった「KISS ME」で、氷室氏はBOOWYの数字を抜いた

「KISS ME」は、当初、周囲のスタッフから「こんなのヒムロックじゃない」と言われたそうだ。また、それまでプロモーションはほとんど周りに言われるがままだったが、初めてタイアップにまで口を出し、カメリアダイアモンドのCMをやりたいと言った。スタッフの中には「イメージと違う」と反対する者もいたが、それを押し切ってCMを取ってきてもらったとのこと。
これらのプロモーションが当たったのもあってか、結果、「KISS ME」はシングルとしては氷室氏最大のヒット作となっている。
氷室氏も「この曲はこう行って欲しいんだっていうプロモーションに関してまでも自分でイメージして初めて成功したのが『KISS ME』かな」と評しており、この成功体験も自信に繋がっていったのだろう。(※14)

このようにセールス面ではBOOWYを上回りながらも、その時点ではまだBOOWYが振り切れていないと感じていたという。

- 今の距離として、BOOWYはまだ見えなくなりました?過去のものとして。
氷室 まだ見えるんでヤダな(笑)、早く見えなくなってほしいんですけど。
- 時々見えちゃう。
氷室 時々見えちゃう。で、そのBOOWYを振り切るためにはいろんな要素が必要で、例えば作品を作った時の作品の満足感もそうですし、ずっと話してきてるBOOWYで出せなかったグルーブを出すっていうのもそうだし。しかも、俺、ゼロか100かの人だから、数字の面でもそうなんですよ。BOOWYが80万枚とか100万枚行ってるとしたら、俺が200万枚いって、それも、そのために媚びてるんじゃなくて、そのコマーシャリズムやりたいことがうまくバランスがとれた上でBOOWYを完璧に抜いた時には、客観的にも全然BOOWYなんて過去のものになるんでしょうけど、今はまだ闘ってますよ。よく布袋さんも頑張ってますけど、ライバル意識みたいなものはって聞かれるけど、俺にとっての布袋はライバルじゃないから。彼は俺の中ではヴォーカリストではないわけだし、作品を作っていくという意味では、やっぱりBOOWY対俺のとの勝負ですよね。で、まだまだ負けてる。
- 負けてます?
氷室 負けてると思いますよ。全然。
- そう言わざるを得ないのは悔しいでしょう。
氷室 悔しいですよ。逆に悔しいことが次のアルバムで勝つんだっていう勢いになったりするしね。それは素直に謙虚に認めるぐらいの方が、僕はいいと思うんですね。演出してしゃべることはいくらでもできるじゃないですか。でも、それはウソだから。
- どこが負けてるという?
氷室 さっき言ったゼロか100かの部分で極端に言うと、近いところでウヨウヨしてるっていうか、まだ元BOOWYのヴォーカリストだから生き残れてるじゃんっていうニュアンスが、自分の中でも世間の評価でもあるっていうことですよね。モノを作っていく人としては、そんなことじゃ絶対にいけないわけだから。(※3 P30-31)

BOOWYとの勝負ではまだ負けていると感じているが、その悔しさが次の作品への活力になる、元BOOWYだからという評価ではいけない、と。
「まだBOOWYを越えられてはいないと思うけど、まだ行けるというところで頑張る」と一種の決意表明めいたMCをしたのも、このアルバム発売を受けたツアー「TOUR 1993 "L' EGOISTE"」においてであった。

L’EGOISTツアーにて
「10年前に、BOOWYっていう最高のバンドを組んで、本当に楽しかったし、BOOWYは大成功を納めた。メンバーも最高すごいいいバンドだった。ソロになって、早いものでBOOWYと同じ5年間、音楽を続けてきた。ソロになって最初に、最高のバンドBOOWYに挑んだ。それは勝てない喧嘩みたいなものだったんだけど、いま後ろにいるこの4人のメンバーに支えられて、アルバム150万枚という数字が出たのは、本当にうれしいです。ソロになってからの5年間。たぶんまだまだBOOWYを越えられてはいないって思うんだけど、とりあえずまだ行けるな!ってところで。頑張ります」(※15)

氷室氏はそれまでも「BOOWYに勝つ」的な発言をしてきたが、この時の発言は、数字が伴った納得いく作品を作った自信に裏打ちされた言葉のようにも感じられる。また、ソロ・デビューしたばかりの頃は必要以上に気負っていたような印象があったが、徐々に肩から力が抜け、BOOWYは愛しい過去へと昇華しつつあったようにも見える。

当時、氷室氏のブレーンであったクリエイティブ・ディレクターの森谷氏も、ソロデビューから「Memories Of Blue」までに作られた曲を振り返って、「今のヒムロックは、曲が素直自然な感じになってきてる気がするんだ」と語っていた。

最初の頃は、”消えていった”夢”とどこかで喧嘩していたじゃない。最近ではその必要がなくなったっていうか“I’m Kyosuke Himuro”と言っただけで周囲を魅きつけることができるんだ、という自信が生まれているような気がするんだ(※16)

【布袋寅泰の問題発言①】

そうしてこの時氷室氏は、「ずっとBOOWYの影から逃れようとしていたけど、そろそろ自分のビートに素直になれる気がする」と言った。
BOOWYのビートの呪縛吹っ切れた、と。
「SHAKE THE FAKE」で松井氏を起用したのは、この翌年である。

ひとまず自分の中のBOOWYに対して整理をつけ、ここから本当に自分の音楽を追求していこうとする中で、自分の原点となるビートをアルバムの中に1曲くらい取り入れてもいいかなという気になった、と彼は言う。

それを踏まえて、先にご紹介した松井氏起用の理由を語る「インタビュー」をもう一度読んでみたい。
このインタビューで氷室氏はこう述べている。
だからって布袋がどっかの雑誌で言ってたようにまた4人でBOOWYをやりたいねってのとは違うんだけどね。」と。

「布袋がどっかの雑誌で言ってたように」
これは、このインタビューから遡ること数ヶ月前、月刊カドカワ(1994年8月号)に掲載された布袋氏のインタビューのことを指している。

あと、BOOWYをさ、なんかやってみたいなと思うよ。コンサートとかレコードとかじゃなくていいから、四人集まって。まぁ、時間の経過が素直にそう言わせるのかもしれないけど、「いや、BOOWYのことは……」なんて片意地を張るつもりなんてないし。だって、あの頃の曲ってあの四人じゃないとできないわけじゃん。すっげえ好きな弾きたい曲がたくさんあるからさ。一人で家で弾いてても寂しいもん。自分のコンサートで何度かやったけど、全然違うものだから。機会があれば、ね。(※17)

氷室氏は、ソロ活動5年目にして「これで自分の音楽を追究できる」という境地に到達して、「では自分の音楽とは何か」と深く悩んだという。
前作の「Memories Of Blue」が自身にとって納得のいく形でバランスの取れたアルバムに仕上がってしまったがために、それ以上の完成度を持った作品を作らなければならないというプレッシャーと闘うことになった。(※6 P21)
BOOWYに対する複雑な想いはまだ完全には消えていないとしても、対峙する相手がBOOWYから自分の作品へと変わりはじめたのがこの時期だった。

「ソロとなった自分の音楽をいかに表現するか」を追求しようとするあまり、「SHAKE THE FAKE」の制作は長丁場になり、下手をすればお蔵入りになった可能性もあったとのことである。幸か不幸か、それまでのソロで築き上げた実績で「突き詰めるまでやることが許される環境」を自身で作りあげていたのも、制作期間が長期に及んだ理由のひとつとして挙げられるだろう。
あまりにも自分を追いつめすぎて自律神経をおかしくしてしまい、「天井がグルグル回って、俺、なんでこんな苦しいコト、毎日やってんだって思いながらも、次の日に歌ってんだよね。バカだから(笑)」と「SHAKE THE FAKE TOUR 1994」のMCでも話していたそうだ。(※18)

美学的な所で言えるのは、いい加減な所で妥協していい加減にテクだけ覚えていい加減に泳いでいく風には絶対になりたくないという。オレ、ラッキーじゃん、みたいになるなら死んだ方がマシですね。自分の音楽は人が勝手に判断してくれるものだけど自分の中ではいつも究極の形を探し続けてつきつめていくみたいな。それさえやっていれば売れる売れないはどうでもいいし、それができなくなっていい加減にフラフラと楽な方に行っちゃうんじゃないかみたいになったらやめますよ。
(中略)
でもやめられるくらいだったらとっくにやめてるんですよ。つきつめて、自分を苦しめてでも音楽やってる事が好きだから、これだけ10何年もやってられるんだしやっぱり好きなんだと思いますよ。(※7 P26)

ステージに立つ氷室氏だけを見たら、自信満々誰よりも光を放つ存在だと感じる人が多いのではないか。しかしその裏には、余人には計り知れない苦悩と苦闘があった。
この時期の氷室氏のインタビューは、作品制作についての真摯な想いや自身のミュージシャンとしてのスタンスを真剣に語っているものが多い。自律神経をおかしくしたというのも然もありなんというか、あまりにも思い詰めていて、読んでいて心配になるインタビューが幾つもある。
氷室氏は、既に「NEO FASCIO」の頃に「そこで自分を本当に偽らないとカッコよく見えないようになったら、もうやめるべきだと思う。カッコいいうちに消えるのが本当ですよね。いや、義務ですね。信じてくれてるやつらに対する。」(※10 P9)と自身の作品づくりに対する覚悟を明らかにしてはいたが、この苦悩の時期を経て、一人のミュージシャンとしてのハードルをさらに高く設定したようにも見える。

そして、布袋氏が「BOOWYをさ、なんかやってみたいなと思うよ」と言い出したのは、こんな風に、氷室氏が懊悩しながら変革を迎えようとしていた時期でもあった。

氷室氏に黙って山下氏のサポートにBOOWYメンバー3人を起用しようと画策するほどバンド活動を軽んじ、解散の口火を切った布袋氏が。
「すっげえ好きな、弾きたい曲がたくさんあるから」「一人で家で弾いてても寂しいもん」なんていう理由で。
数年前から、僅かながらも交流が復活していたはずの氷室氏本人へではなく。
布袋氏お得意の、マスメディアという媒体を利用し、不特定多数に向けて。
解散後に伝説化して、当時以上に多くの人に愛されるようになったBOOWYを、また4人でやってみたい、と。

氷室氏はアルバム「SHAKE THE FAKE」で、1曲だけ松井氏をゲストに迎えたが、彼のそれまでの発言を追っていくと、それがBOOWYへの未練でも何でもないことがわかる。確かに、解散を決断する前の氷室氏の言動からは、「4人であることの拘り」が見て取れる。また、急速に人気を獲得したことに伴う実像と虚像との乖離に苦しんではいたようだが、あの時点(1986年12月に布袋氏が解散をメンバーに切り出した時)では解散したいとまで考えていなかったように見える。
解散した後は、「自分が好きな音楽をやり続けるために作ったバンド」を自分たちの手で終わらせた、終わらせざるを得なかった事実を誰よりも重く受け止め、活動していた。
それ故に、BOOWYを復活させたいなどとは生半可な理由では考えないだろう。

その一方で、BOOWYはゼロから東京ドームまで上り詰めた経験を持ち、「一番感受性が強くて、一番自分でも盛り上がれる時をBOOWYで過ごして、それで育ってきた」青春時代そのもののバンド。後に「もしかしたら、自分の中では認めたくないんですけど、あのBOOWYのビート感っていうのが、自然に気持ちが良いスタイルになっちゃったのかもしれない」(※19)と語っていたように、BOOWY時代のビート感は、ミュージシャン「氷室京介」の身体に染みついた、大変自然なものであった。
だからこそ、逃れようとしていたBOOWYのビートの呪縛吹っ切れたと感じられる作品を完成させ、さらにその作品の売上が目に見える「数字」という形でBOOWYを超えたことで、そろそろ自分の中の欲求に素直に従ってもいいかと考えるようになった。だから、松井氏を起用してBOOWYのビート感に近づく曲をアルバムに入れてもいいかという気になった。1曲くらいなら、と。
そうすることで、解散してからずっと追い求めていた理想のビートとは何かをあらためて考えようとしていたのではないか。

氷室氏はこの時、「BOOWYをまたやりたい」「俺の音楽はBOOWYのメンバーがいないとダメ」などとは微塵も考えていなかっただろう。松井氏の起用は、難航するレコーディングの中で、BOOWYのメンバーに助けを求めたとか、BOOWYに縋ったとか、そういう意味合いでは決してない。過去に戻りたいと思ったわけでもない。
どちらかというと、1曲くらい元メンバーを起用してもBOOWYに媚びた作品にはならないと、自信がついたからこそだったと思う。

ソロになったばかりの頃、「次に行きたい場所がみんなそれぞれにあって、そこに行くために、そろそろ一段落つけてもいいんじゃないかという結論が出ただけ」と氷室氏は解散理由を語っていたが(※20)、私にはそれがただの方便のように見えている。

そう見える理由の一つは、ソロ初期の氷室氏のインタビューで「BOOWYでできなかったことをやらなければならない」「BOOWYに勝たなければいけない」という一種強迫観念めいた考えを持った理由として「じゃなかったらなんでバンドやめたのかっていう」「BOOWYをやめた事の意味づけ」といった言葉が散見されるからだ。
もしも氷室氏が「次に行きたい場所」を解散決断時に明確に持っていたのなら、そのために解散したのであれば、「解散した意味付け」や「BOOWYではできなかったこと」を探す必要などない。解散してでもやりたいことがあったなら、それこそが「解散した意味」ではないのか。

実際、「SHAKE THE FAKE」をリリースした頃のインタビューにおいて、「今だから言えること」と前置きした上で、「俺はBOOWYを何が何でも解散したくてやめたわけじゃない」と認めている。

- さっきインタビューの始めにも言ったように、今回は「ANGEL」以来6年ぶりのLAということになるわけだけど今あの頃を振りかえってみて、自分の中でどんなことが一番変わったと思う?
氷室:「自信がついてきたことかな。一枚目、二枚目のことはやたらに言葉で自分のイメージを構築しようとしてたと思う。まずコンセプトを作って、自分の音楽を完璧に言葉で飾っていないと安心できなかったというか。それじゃないとBOOWYをやめたことの意味づけが見つからなかったからさ、あの頃は」
- それは周りを納得させるためというより、自分を納得させるための言葉ということ?
氷室:「そうだね。とにかく俺はBOOWYを何が何でも解散したくてやめたわけじゃないからさ。これは今だから言えることだけど、あのままやっていくこともありだと思ってたし。もちろん今はそうしなくて良かったと思ってるけどね」
- 今は言葉で飾ろうとしなくなった分だけ、自分に自信がついたということなんだ。
氷室:「うん、何をやってもこれが自分なんだって言い切れるからね」(※21)

氷室氏は、かつて「バンドに執着してるっていうより、この4人に執着してる」と言っていた人だった。また、メンバーであった高橋氏に「氷室はこの4人でのBOOWYでいたかった」と評されたほど、BOOWY時代には誰よりも「4人であることへの拘り」を持っていた人だ。だがBOOWYが世間に評価されるにつれ、バンド外活動に重きを置くようになった布袋氏が「それぞれが自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ進んだほうがいい」と願ったことにはじまり、BOOWYは解散を選んだ。

そうやって「自分の好きな音楽をやり続けていくために作ったバンド」を自分たちの手で終わらせなければならなかったからこそ、そうして解散は「今度はひとりひとりで有り続ける事に拘るため」だと宣言したからこそ、BOOWYにおける活動以上の意義を自分のソロ活動に求めた。
自然体で気持ち良く歌えていたBOOWYのビートの代わりに、BOOWYとは別の形でありながらBOOWYで得られた同じような刺激を探し求めるようになった。
ひとまずの目標として掲げていたBOOWYのセールスを抜き、自他共に評価できるアルバムを完成させることができたからこその松井氏の起用。
なのに布袋氏は、このタイミングで、「また4人でBOOWYやってみたい」と世間に向けて言った。言って、しまった……。

以前書いた解散諸説でも触れているが、解散に至るまでの布袋氏の言動や行動を今一度思い返していただきたい。
当時、山下氏のツアーバンド事件をはじめとする布袋氏のやらかしのあれこれがどこまで知れ渡っていたかはわからないが、彼らに近い関係者は当然知っていただろうし、BOOWYの後期に布袋氏がBOOWY以外の活動に色々と目移りしていたことは、解散前のインタビューをきちんと読めば、割とあからさまだったことがわかる。仲間を仲間とも思わない、と言うと少々大袈裟かもしれないが、自分がやりたいようにやるためなら、バンドメンバーたる氷室氏がそれをどう感じようか一切斟酌しない言動・行動が目立った。
「解散を切り出したのは俺」と布袋氏自身も早々に認めていた。(BOOWY人気がいつまでも衰えないことに気付いてからは言い訳も多いが。)

そうやって解散の夢をあちらこちらで語り、「自由にやりたい」「(氷室氏との)パートナーシップはとりあえずここで止る」と言い放ち(同時期に氷室氏は「この4人でならまだまだいろんな事にトライできると思ってる」と語っていた)、実際に山下久美子氏のツアーバンド事件を起こすなどしていた布袋氏。
当然周囲は、(対外的な建前はどうあれ)布袋氏が「もうBOOWYをやりたくない」と考えていると捉えていただろう。
そんな布袋氏が、ここにきて「また4人でBOOWYをやってもいい」というメッセージを公式に発した。

そりゃあ周囲は色めき立つだろうなぁ……。
BOOWYの人気が本当の意味で爆発したのは解散後だ。
「間に合わなかったファン」が世に溢れ、多くの人が「伝説のバンド」をこの目で確かめたいと渇望していた。
さらに、そんなバンドのヴォーカルだった氷室氏は、前年に自身の作品でミリオンを達成。ソロ・ミュージシャンとしても押しも押されぬ大スターとなっていた。
ギタリストだった布袋氏は、ソロ1作目が業界人から高い評価を受けたほか、人気アイドルだった吉川晃司氏とCOMPLEXを組むなど、話題には事欠かない。
もしもこの2人が再び組んだら、BOOWYの4人が再び揃ったら、どんなに凄いこと(音楽的にも、話題的にも、稼ぎ出す金銭的にも)になるか、と、夢を見る奴らが現われたであろうことは想像に難くない。
布袋氏のこの一言は大きな波紋を呼び、トラック・ダウンでL.A.に滞在中の氷室氏の耳に入る程度には、BOOWY界隈で「騒動」になったのではないか。

自律神経をおかしくしてしまうほど制作活動に打ち込んでいる時に、わざわざ日本からL.A.まで布袋氏のインタビューが掲載された雑誌を自ら取り寄せるとは考えにくい。まして、この雑誌が発売されてから氷室氏のインタビューまで1ヶ月もないのだから。
となると、この布袋氏の発言を氷室氏へ即ご注進、というかその雑誌(インタビュー)を渡した人がいたのだろう。もしかすると氷室氏のインタビューを担当したライターが渡したのかもしれないし、或いは、布袋氏の発言で色々詮索されたり、氷室氏の考えをインタビュー等で問いただされることを見越して、予め情報が伝えられたのかもしれない。氷室氏は自身にとってネガティブな話だからと隠されたり、知らされないでいることをとても嫌がるといった評を聞いたことがあるので。

そうして氷室氏は、アルバム「SHAKE THE FAKE」完成間近に――本当の意味でソロのスタート地点に立ち、再び新たな一歩を歩み始めようとしているそのタイミングで、布袋氏の言葉に煽られて過去に引き戻そうとする流れと対峙することになった。


氷室氏側の状況説明が想像以上に長くなってしまったので、ひとまずここで区切ります。

布袋氏のインタビューは他にも色々ツッコミどころ満載というか、(氷室氏に対して)そこそこ無神経なことを宣ってしまっているけれど、それについての個人的な見解は、また次回(多分)で。まぁ、無神経なことと言っても、恐らく布袋氏自身にその自覚はあまりないし(元々自己評価が高すぎて他人に対する無礼に対して鈍感すぎる人でもあるから)、私もこの時の氷室氏の状況やら解散の経緯やらソロ初期の布袋氏によるBOOWYや氷室氏へのディスリスペクト発言やらを知らなければ引っかかったりはしなかったでしょうけれども。逆にちょっとした行き違いで道を違えただけだと勘違いしていたなら、布袋氏の「また4人で〜」発言は感動的だと思ったかも。

布袋氏側の事情や「SHAKE THE FAKE」の頃に流れたという再結成の噂の話まで辿り着かなかった……。


【出典・参考資料】

※1 Time Limit! 1996年VOL.11 P21
※2 PATi PATi ROCK'N' ROLL  1994年11月号 P29
※3 R&R NewsMaker 1993年2月号
※4 PATiPATi 1993年2月号 P12
※5 UV Vol.44 1999年7月号 P27
※6 氷室京介ぴあ
※7 R&R NewsMaker 1994年10月号
※8 him №5 1992年12月7日発行
※9 「記憶」/松井常松著 P124
※10 pia music complex №7
※11 プレイボーイ 1990年2月20日号 P198
※12 宝島 1989年12月号 P40
※13 ARENA37℃ 1989年3月号 P110
※14 20th Anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT-  パンフレット
※15 him 1993年7月1日発行
※16 him special 1993年5月1日発行
※17 月刊カドカワ 1994年8月号 P76-77
※18 R&R NewsMaker 1995年12月号 P35
※19 KING SWING 2015 WINTER P21
※20 「路傍の岩」/佐伯明 ロック・インタビュー&評論集 P42
※21 KING SWING 1994 AUTUMN P12
※22 What’s IN 1993年1月号 P22

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