朴永心証言・取材記事2(検証) ~南京~
1.「三大かまど」真夏の南京
朴永心証言・取材記事1(検証)~慰安婦となった経緯~「2.被害に遭った季節(1):気温」でも指摘したことであるが、連行された(1939年)8月の南京は、
とある。
初期証言の(1938年)3月証言による南京連行と、この「三大かまど」と称される(1939年)8月の南京連行は、実際に経験していれば間違えることはない。
2.慰安所建物の異なる2つの証言
朴永心は証言(①1995.北朝鮮)で慰安所は「3階建て、部屋は2m×2.5m(=5.0㎡)」とした。その後、2003年6月に朴永心が証言した慰安所建物が発見されたという事で、同年11月には朴自身が現地で確認した。約1年後の証言⑤ (2003.西野)では、発見された現地の建物「2階建て、部屋は6畳程(=9.72㎡))」となる。階層や部屋の面積の相違、部屋の形状も長方形ではなく一角に張り出しのスペースがあったが、これについても何の証言もない。過去の証言を明確に訂正・説明もしていないことから、朴は2種類の異なる建物を証言したことになる。
これも、朴永心が朝鮮出国年を「1938年3月」と「1939年8月」と証言した件と同じであり、その点においても朴証言の信憑性は極めて低いものと言える。
3.近水路(キンスイロウ)の場所と鉄道
朴永心は慰安所について、証言(①1995.北朝鮮)では「近水路」慰安所、証言(②1999.ニュース打破)~証言(⑤2003.西野)まで「キンスイロウ」と証言し、朴証言(⑥2004.北朝鮮→ノーカットニュース)では「利済港2号慰安所(東雲慰安所)」と呼ばれる2003年に発見された(とする慰安所)建物を見て断言し、確定した。
この建物の近隣には当時「京市鉄路」があり、蒸気機関車が走行していた。3年間滞在が事実ならば如何に軟禁されようとも、蒸気機関車の汽笛音や煙、振動などの(味覚以外の)視覚・聴覚・嗅覚・触覚で感じ取った機関車の情報は嫌でも体感していた筈であり、被害を証明するのに必要な慰安所の場所を特定するための重要な情報であるが、朴は証言していない。
4.慰安所周辺施設
「南京市街に入ったトラック」
「有刺鉄線で囲まれた日本軍の建物を過ぎてまもなくエンジンを止めた」
「そこは中山東路の南側に位置し」
「東側には雨花台と下関の間をつなぐ鉄道が走っていた」
「小さな店が軒を並べる通りに面した大鉄門」
「入ると、その一画には10軒近い慰安所がひしめき合っていた」
「門をくぐったすぐ手前の2階建ての大きなレンガ造りの建物」
「「キンスイ楼」だった」
1939年8月当時、慰安所近くにあったのは中華維新政府(38年3月建国)の建物(南京総統府)。年代が異なるが1937年に南京を警護した第16師団の司令部や1943年の支那派遣軍司令部は(機密性や警備などの理由で?)郊外にあった。
4.慰安所周辺施設 朴が到着した1939年8月の在南京警備は第15師団。更に翌月には支那派遣軍司令部が旧中華民国外交部に置かれた、と考えられる。 第15師団と中支那派遣軍、支那派遣軍司令部の詳細については現在、調査中<未完>。
http://www.jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pdf_hokoku/2018/a02.pdf
5.日本兵の蛮行?証言
証言②「腹を切られた」は伊藤孝司が平壌で収集
証言③「首を切られた」は西野瑠美子と朝日新聞が平壌で収集
証言⑥「人肉スープ」は北朝鮮労働新聞の記事
朝鮮女性を殺してスープにするような日本兵から重傷を負って何故助かったのか?入院期間は?治療代は?
なお、朴は1967年に子宮摘出手術をしている
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