孫娘への手紙に迷う
数日前に孫娘に手紙を書いた。以前は会うことが多かったのに、最近は、約1年間近く会っていなかった。LINEでの連絡は行っているのだが、この子は友達が多くて、LINEが煩わしくてほとんど開かない。電話では、面と向かっていないと、意外と話題は作れないものだ。
手紙の内容は、何が切っ掛けだったのか忘れてしまったのだが、人の「死」に対する迎えかた、捉え方についてだ。若い時には日々の生活は「死」へと向かっていると、ただ漠然と考えている。老人になり、在る条件が整うと「死」から生きている現在を見詰めることに成る。生が死へと向かうのか、死から生を見るのか、生きると云うことの価値観が突然に大きく転換してしまう。若い時のように、生きる事は大切だとか命は大事とか、それでは収まりきれない多様なモノになり、価値観が一つに成らない。
ローマ神話の中に見た、共に生きなければならない。互いを認め合い、助け合う中に「死」から見た「生」が在る。というような内容なのだが、少し回りくどい、便箋に10枚近い文章になってしまった。だいたい、書き上げた時に何を言いたいので、こんな例え話を出したのかさえ、少々忘れかけていたのだが。
この境目を過ぎる前、小学生の孫の恋愛小説を読んで、渡り廊下のすれ違いの本質は独占と繁殖が根底にあると言ってしまった。猿の世界でもボスが替わると、前のボスの生まれたばかりの子供を殺すことがある。これは自分の遺伝子を残そうとす行為であり・・・、などと話して軽蔑された。
小六になり、湊かなえの小説を読むようになって、サスペンス小説が書けたら良いなあ、と言っていた。今年、中学生になり、お盆前に来て、夏休みの宿題と毎日の自主勉強のノートを忘れていった。宿題帳やノートの余白に、数行から時にはノートの半ページに亘り、思い付いたことや日々感じた事が落書きとして書いてあった。その内容が面白い。サスペンスよりも友人や両親、近所の人達の、様々な状況での、言動の面白さやチョットした批判が書かれてあった。勉強の合間に、余白が有るとつい書いてしまうようで、担任も勉強よりも文章の感想などが丁寧に書かれていて、楽しんでいるようだ。
特に夫婦喧嘩の後の母親の行動とか、乱暴な友達の本当は優しい行動とか、教師や近所のお爺さんなどの何気ない動きなど、読んでいて面白かった。この行動の原因とか感じていることは、受け手で有る孫娘の今という時間が永遠と感じているように思えた。日々新鮮な出来事に遭い、それを感じられることは常に充実した生き方をしてるからだ。歳を重ねると目の前の出来事が、ほぼ全て経験したことや聞いたことに似ていて、新鮮味や感動が感じられなくなる。この要因は「死」から時の流れを見るようになってからだ。
永遠に続くと事はないが、それを実感できない青年期。老いて最期をハッキリと自覚できる様になってからの時の過ぎ方や捉え方。自分なりに境界線を通り過ぎての感想だが、書いて切手を貼ったのだが、未だに出そうか迷っている。明るい面だけではなく、暗い面も知っていて良いと思うのだが。
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