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貧困もまた楽しみ・・・などという負け惜しみ

島内先生の授業が受けられず、そうとうに気分的な落ち込みはヒドイ。『枕草子』などは全く興味も無かったのに、先生の『方丈記』『徒然草』などを読み、直に先生の授業を受けたかったのに・・・。

ということで、今朝は目の覚めた2時から『方丈記』などを読んだ。

若い時に五大災害を経験し、父のように下鴨神社を継ぐことが出来ず、晩年に日野に方丈の庵を築いた。

方丈の庵、子どもの頃に暮らしていた家の「千分の一」の狭さになった。その感慨はいかばかりかと思うが、狭いが故に四季折々の自然も感じられたのだろう。



「方丈の庵」・・・何となく、我が人生の来し方も偲ばれる、の様な気味もする。

見渡せば、わずかに六畳の一間に、書棚と机とベッドを押し込め、猫の兄弟ふたりと共に過ごしてる。当初、何とも哀れに思っていたが、慣れてしまうと心地良い空間となった。この部屋は、ほんの物置程度しか使ってなかったのに。

今はわずかな年金を糧としているが、思えば半世紀も前の若い頃には、この年金額以上を一晩で使い果たした事も何度かあった。

角盆に乗せられた海鮮桶と蕎麦、時々食べてるこれが、今は大変なごちそうでありがたい。月に1回程度の安宿で温泉に浸るのもありがたい。

二十歳の頃、歳に似合わない豪遊をしていて、友人の親から父に注意が来たそうだ。その時の父の答えた言葉が「一晩で使った金額で一月を暮らすようになると、金のありがたみを感じ、周りのありがたみが解るようになる」というようなことだったらしい。

残念な事に、実際にそう成ってしまった。

負け惜しみの様だが、今のビンボー生活の方がノンビリして良い。金を使えるということは、それに見合う仕事をしてるということだ。頭を使うのか身体を張るのか、そんな生き方は性に合わない。

心の自由と生活の満足感、自然の美しさや食べられる事への感謝、『方丈記』にみる世を超越した閑居の美に比べようもないが、今は今の生活に満足と感謝を感じている。

これって、貧困からの負け惜しみ・・・なのかな。

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