百年の絶望
noteを書いている時、寄稿のコンテンツを書いている時、書籍の原稿を書いている時、どうしようもない不安に襲われます。
公開しても反応が無いのではないか。内容を評価されないのではないか。本を出しても売れないのではないか。
そんな不安はココロとカラダ、にんげんのぜんぶに伝染して、胸を苦しめ、黒い染みが全身を包み込み、もう1人の僕が生まれて、ひたすらに僕に向けて罵詈雑言の嵐を投げつけます。
やっても意味がないのではないか。
もう止めてもいいのではないか。
もう十分頑張ったではないか。
実際に、本はバカバカと売れてないじゃないか。
〇〇と比べてみろ、お前なんか評価されていないじゃないか。
お前なんか重版童貞だ!
口の悪いもう1人の僕に、僕は「絶望の詰め合わせ」と名付けています。
そのたびに僕は、そうかもしれないなぁ…と考えつつ、もう1人の僕と会話を交わすことも無く、noteで書き、寄稿のコンテンツを書き、書籍の原稿を書いています。
言葉を交わすと、負けそうになるからです。妬み、嫉み、僻みが僕をグワーッと包んで身動き1つ取れ無くなる。それに掴まったら最後、身を亡ぼすまで心を壊すまで炎上するまで、僕自身が罵詈雑言を吐くでしょう。
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僕にとって文章を書き続けるという行為は「穴を掘ること」と定義しています。穴を掘れば掘るほど、誰も聞いた機会が無い、見たことの無い気付きや発見に出会えます。
しかし、自分1人が掘れる程度の穴ですから、他の人がどれくらい穴を掘れているか、自分はどの程度なのかが分かりません。
たまに穴の上から聴衆の「〇〇さん、すごーい!」「△△さん、おもしろーい!」という声が聞こえてきて「あー、そっちだったか…」と心が折れる音がします。
僕が掘っている「穴」は「ダークナイトライジング」でブルース・ウェインが突き落とされた奈落より深く、「リング」で貞子が何年も生き永らえた井戸より暗い。
絶望。
それは、圧倒的なまでの絶望なんです。
誰の声もしない。
自分の声しか響かない。
孤独に負けそうになると、とつぜん「絶望の詰め合わせ」が出てくる。そのたびに僕は自分に言い聞かせます。
他人と自分を比べてはいけない。
自分にしかできないと信じる。
応援してくれている人は絶対にいる。
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僕が今掘っている穴からは地上の明かりなんかとうに届かなくて、どこまで掘っているか、下に掘っているのか横に掘っているのかも分からない。
でも、僕には、それしかできないんですよね。不器用だから、それしか知らない。掘り続けるしかない。思考停止で穴を掘っているのではなく、行動経済学で言うところの損失回避行動が働いているわけでもない。
その先に絶対面白い何かがある、と信じているからです。
なぜなら、穴を掘っていると、たまに「出会い」があって、良い経験ができるんです。「パンドラの箱」を開けると様々な災いが出たけれども、最後に「希望」があったと言われていますが、まさにそんな感じです。
だから、圧倒的な才能を前にして、あーダメだダメだ自分なんか全然ダメだ生きている価値がない生まれてきてごめんなさいと苦しくなっても、次の日はまた再び穴を掘り始めます。
「絶望の詰め合わせ」が僕に向けて嘲笑うんです。
そんなことして、意味があるのかよ。
お前なんか、誰も注目してねーよ。
僕は耳は傾けますが、絶対に触れない。僕は、僕であろうとするために、また再び穴を掘り始めます。
絶望と共に、希望のために。
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