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レジ袋というアイコン

皆さんは最近、いつレジ袋をもらいましたか?

正直、僕は思い出せません。そもそも有料化される前からレジ袋なしで済む買い物だったら、商品は手で持って帰ったり、パーカーのポケットに突っ込んだりしていました。更に有料化されてからというもの、レジ袋のためだけに2〜3円を払うのが余計に嫌になってます。

Googleの検索窓に「レジ袋有料化」と打ってスペースキーを押すと、「効果」とか「意味ない」とか「デメリット」とかいう言葉が予測変換で引っかかります。なるほど、割と世間受けは悪いみたい。確かにこの政策だけで環境問題にどれだけ貢献できているか、と聞かれれば確かに僕も疑問です。ただ僕は同時に、これはある種の「アイコン」なんじゃないか、とも思うのです。

つまり、「SDGs」とか「環境対策」とかどんなに叫んだところで、そもそも大量に生産して大量に消費するキャピタリズム全開な私たちには今ひとつ実感が湧かない。しかし、「レジ袋有料化」という身近な、更に人によっては地味〜に嫌なアイコンを設定することで、人々の意識変容を行動とともに促せる。そのアイコンを中心として、環境問題の解決に向けた他のアクションにも目が配れるようになるんだと思います。

アイコンは私たちの暮らしに直結する形で現れることもあれば、アイコンらしく、人の形を取ることもあります。環境問題で言ったらグレタ・トゥーンベリあたりでしょうか。環境問題に明確なアクションを起こす明確な人がいることで、顔が見えることで高まる共感性によって、人々がそれに対して反応しやすくなります。

でも僕、そういうアイコンからちょっと距離取りたいなっていつも思ってます。レジ袋有料化に反対するわけでも、グレタに賛成できないわけでもなく、その構造が怖いから。

アイコンの強烈であるが故の弱点は、アイコン自体の効果や正当性、価値が損なわれてしまうと、それ以前の大きな目標すらも否定されてしまいそうになることです。

仮にレジ袋有料化の効果が薄かったとて、プラスチックごみの問題から逃れられたわけでも、気候変動が止まるわけでもありません。もちろん政策の実効性への議論は大いに必要ですが、その前提自体は否定できるものではないはずです。少し大袈裟な例ですが、グレタが社会的にキャンセルされるような(犯罪とか)完全アウトな行動をしてしまったとしても、環境問題の重要性がなくなるわけではないですよね?

本質的なこととは無関係に、アイコンに対するYes or No でその思想の正当性まで決まってしまう雰囲気が怖いです。何となく僕は、様々な分野でそうしたアイコンが出てくるたび、そんなことを思ってしまいます。


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同年代のアイコンを1人あげるとすると、彼女だと思っています。
色々と注目を浴びやすい彼女が「上手に歳を取ってると思う」と歌うことは、
何だか明るいことだと感じています。

書いた人:けい
一言:海外のコンサート映像のシングアロングを観て、日々羨ましさを募らせています。

WACODES

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