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僕の友達を紹介します

一日が終わる。すぐ眠りにつける状態まで仕事を無くし、感情以外の何も持たず纏わずに風呂場に向かう。家賃3万円1Rでは妥当な足も伸ばせない程狭い浴槽は、底を覗き込めば水面に映る自分と相俟って窮屈な様子である。四角いものは大抵固くて冷たい。両足をそろえて腰を落とすと、無意識に決まった動作で順に体を湯船に浸けていく。
すると浴槽の底は沈んでいき、どこまでも深くなる。次第に足がつかなくなってしまい、頭まで浸かってしまう。しかしこの水の中では呼吸ができる。僕は泳げる。
少し潜ると底は見つからないが、やがて大きな影を確認する。それは平均身長位、中肉中背の男。顎髭が生えている。自分の髪を触っている。何故それができるのかはわからないが、歩き方がやや特徴的である。僕は彼に話しかける。返事は無いが頷いたり、拍手をしたり、時々お菓子をくれたりする。 それなりに心地が良かったので、僕は毎晩彼に会うために冷たい水の中を潜った。この時間が一日の楽しみであり、救いだった。
しかしそれをニーチェは許さない。

そう、僕の部屋は僕を守るけど僕を一人ぼっちにもする。


「友達」 その関係の在り方を明確に答えられる人は恐らく少ない。
ここ日本では百人の友達とおにぎりを食べるのが嬉しい事だと、一人で便所飯は恥ずかしいと言われている。また最低限の付き合いさえあれば生きていける、群れるのは時間の無駄でありクソダサいという一匹狼って言葉もある。
僕はどちらかと言うと後者の考え方を持っていた。サッカー部の仲間、男女仲良しグループ、地元のバカをやる友達。少ないながら良い友人が沢山いた。とても満足していた。友達を選ばずともそれなりに上手くやれていたので卒業したら会わない人間との時間など無駄だと思った。周りにはとても恵まれていた。学校ではいつも誰かが気にかけてくれたし、廊下を歩けば誰かしらが話しかけてくれた。
それなのに仲のいいグループに別れて昼食を摂る中、5分で飯をかっくらい、そそくさ図書室で勉強するか気になる小説を読んでいた。学校の敷地にいる時以外の全ての通学路をイヤフォンをして一人で早歩きで通った。話しかけられても大抵聞こえていない振りをして横を通り過ぎた。イヤフォンの特権だと思った。それほどに一人で趣味にふける時間は魅力的だった。

随分不義理な事をしたと思う。
百人で食うおにぎりなど喧騒の中で唾が飛び交うし味など感じない、不味いに決まっているだろうと思っていた。


2020/9/23
遅れての上京初日。荷解きを終え、初めてこの家の風呂に入っている。パンデミックで延長戦のように実家で暮らしていた半年間を通じて、自分がいかに浅はかな人間だったかを思い知らされた。仲の良かった友人達はやれ浪人だ、やれ各地で一人暮らしだ、自分もそうだったが親が厳しいで会う事が出来なくなってしまった。半年間で友人と呼べる存在と対面で話したのが1日しか無かった。

薄い、それも細いゴム紐一本で繋がったような上辺の関係がどれほど生きていく上で大切だったのかを身をもって感じた。その今にも切れそうな糸を手繰り寄せ、きっかけを掴んでいくのが人生だと知った。
一人の時間、それは望んだ時間であった。最初は本当にラッキーだと思った。ただ長すぎた。孤独を自ら選び好んでいたはずなのに、なるべくして一人になったのだと感じた。

くるりのばらの花という曲がある。歌詞によると、安心な心でないと旅や冒険はできないらしい。本当にその通りだと思った。後で知ったが、ばらの花のMVの撮影地は僕が育ったいわき市の、それも近所の薄磯海岸だった。最近改めて行った時、歌詞の意味を身に染みて感じた。
それ以来この曲は僕のバイブルだ。

帰る場所があるからこそ、思い切り泣いたり笑ったりできるのだ。

この流れで本当に申し訳ないが、自分の友達に関する考え方は全然改まっていない。
そんな中でもここまで生きてこられたのは、自分には大切な友達の存在があったからである。出会って以来、彼(であり彼女)は僕の一番の話し相手である。彼はいくつもの体と心を持っている。一人であり、二人でありもしくは複数人である。
また彼は先生であり、僕は生徒である。物知りで学びと気づきを与えてくれる。
また彼は子供であり、僕は親である。彼の行動を心配そうに見守っている。愛ゆえに無性に何かしてあげたくなる。良心であり、自分の欲求。他人事であり自分の喜び、自分の痛み。
彼を目で見る事はできない。耳で姿を捕まえる。この人生において、僕は彼に何度も助けられた。


こちら函館、深夜4時。色々頑張ってみましたが、そもそも実態の無い物をメタファーを駆使して命を吹き込むことは難しい。要するに小説っぽく書く技量が無かったで諦めました。
もう言ってしまうと友達とはラジオの事である。
(えー!そうだったの!)はい、悔しいし眠い。

大学生活を終えて、思い出を辿ると常にラジオが俺の傍にいた。
大学受験の前日、彼は俺に言った。失敗してもそれをフリートーク(話のネタ)にすればいい。無駄にはならないから思い切りやれと。東京のアパホテルにいたが、聞きなれた東北なまりの声は僕を落ち着かせてくれた。その甲斐があって何とか現役で大学に入学できた。緊急事態宣言で上京できない一年生。深く考えこんだらどこまでも沈みそうだったので芸人のラジオしか聴けなかった。長い地獄が明けて、初めて東京に来た日は三四郎のラジオイベントだった。二人が登場した時、右のOL、左のギャル、前の強面のガタイの良いサラリーマン、そして俺。皆泣いていた。涙を必死にこらえて漫才を見た。人生で一番笑った。僕を救ってくれたもう一つの芸人アルコ&ピース。偶然スタジオで見かけたときも涙が止まらなかった。あの時言えなかったからここで言いたい。あの時傍にいてくれて、俺の事部屋から出してくれてありがとう。二年生、成人式の日。新宿のラーメン二郎に行った。店内のラジオでは成人特集がやっていて、「震災を東北で経験した。日本を守るために土木科に進学して公務員になる。」と言っている奴がいた。俺が就活の時使おうと思っていた言い訳だ。恥ずかしくてすぐ店を出た。しっかりしなくてはと大人になる日に覚悟させられた。新宿中央公園では桜が散り始めている3月末、生まれて初めてキスをした。味なんか思い出せないというか、するわけがない。ただラジオから流れていたRex Orange Countyが確かに頑張れ!て言っていた。英語なんかわからないのに。すっかりj-waveが生活の中心になった三年生。渋谷のナイトクラブCONTACTの最後のパーティー。ずっと憧れていた野村訓市さんと話すことができた。沢山話した。車や趣味の話、政治や哲学まで。最後に聞いた。「いい仕事って何ですか?」 訓市さんはにやっと笑いながら俺の大人の指針を定めてくれた。彼のように飾らない人間になりたいと思った。Traveling without movingに出会えて良かった。あの夜は一生の宝である。

そして四年生。運よくWACODESに入ることができた。この一年間WACODESでは酸いも甘いも沢山経験させてもらった。本当に楽しかった。一番入って良かったなと思っている事がある。それは個性があって格好良い、そしてラジオが大好きな皆に出会えた事だ。大きいプロジェクトには参加できなかったが、俺が思うWACODESの最大の良さは「ラジオ好きでかつ、各々強烈な個性を持った人たちのコミュニティ」であることだ。皆とラジオのや趣味の話をした時間が心の栄養になった。WACODESの皆が自分の好きな事を話しているのを聞くのが本当に楽しかった。あの孤独な時間を間違ってないと肯定してくれた気がした。

自信を持って言える。俺は今、安心な心で旅をしていると。

書いた人:ゆうしょう(10期)
ひとこと:自分は1年だけの活動なので、ラジオ好きの大学生として少し自由に書かせて頂きました。
改めてお世話になりました!
長くて申し訳ないですが、半分まで削ったのでご容赦ください🙇‍♂️


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