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【実家の解体】母の遺品から父の名刺が

婚礼写真にはさまっていた物

今年、母が亡くなって、空き家となった実家を解体しなければならなくなった。
 
そのため、ときどき通っては、遺品の整理をしている。
 
先週のことだが、“着物大臣”だった母の桐箪笥(たんす)二棹(さお)の一つから、父と母がかしこまっている婚礼写真が出てきた。
 
桐箪笥で大切に保管してあったというのもわたしには意外だった。
 
そして、もう一つ思いがけない物が、婚礼写真帳にはさまっていた。
 
――若き日の父の名刺だ。
 
なぜ、そんな物が大切に保管されていたのだろう。
 
わたしが小学4年のとき、父は気づいたら家に帰ってこなくなり、母はそんな夫を亡くなるまでずっと憎んでいた。
 
だから、婚礼写真だの、夫の名刺だの、そんな物を大切に保管しておいたことが驚きだった。
 
遠距離介護で毎週末に通うたび、「あいつはちゃんと生きているのかね」などと母は憎々しげに言いながら、それは心底の憎しみとか罵倒とかではなしに、もしかしたら夫に執着していたのかもしれないと思うようになった。
 
わたしは<家庭崩壊>の単純なストーリーを勝手にこしらえていたのだろうか。

父の名刺がなぜ残されていたのか?

今でもはっきりと思いだすのは、大学の入学金を出してもらいに父の家を訪ねたとき、「なんだ、早稲田を受けなかったのか」と言ったときのがっかりしたような父の表情だ。
 
わたしは入学時に提出する保護者欄に「早稲田大学専科卒」と父が書き込むのを見て、また見栄っ張りが、と信用しなかったのだが、まるきり嘘ではなかったことを名刺で初めて知った。


父の名刺

名刺には、<早稲田大学附属高等工学校>と併記して<陸軍依託生>とあり、肩書に太字で<陸軍軍属>とある。
 
ネットで調べると、<早稲田大学附属高等工学校>は戦前に創立され1951年まで存続していた。
 
つまり、父は終戦で除隊後、昼間は陸軍に軍属として働きながら、夜間には早稲田で工業技術を学ぶ勤労青年の一人だったということになる。
 
その後、父は、<芝浦電気(東芝の前身)>に就職し、同郷の幼なじみの母を呼び寄せて結婚し、勤め先の京浜工業地帯に近い横浜市で暮らすようになった。
 
そのあたりは本当の話で、母は「(憧れの)会社員と結婚できると言うので横浜にきたのに……」と子どもたちに愚痴まじりで話していた。
 
しかし、そこから父と母の話は、微妙に食い違ってくる。
 
父は、「(芝浦電気の)労働組合で赤旗を振りすぎたため、レッドパージ(赤狩り)にあった」と言っていたが、母に言わせれば、「会社勤めが嫌になって自分から勝手に辞めたのよ」ということになる。
 
でも、当時の労働争議のドキュメントなどを読むと、どちらの話が正しいのか……というわけではなく、≪合わせ技一本≫というところだったように思う。
 
父は<芝浦電気>を自己都合退職か解雇になったかして、<生活協同組合>(今のCO-OPとはちょっと違う)の設立に熱を上げたらしく、店の前で組合員(従業員)たちと晴れがましい姿で映っている写真が残っている。
 
それにしても、婚礼写真については「捨てられずに仕方なく取っておいたのよ」と母はきっと言うだろうが、名刺まで大切に取っておいたのはなぜだろうか。
 
もしかすると、父の名刺は、母にとって終戦直後の女性の晴れがましい勲章のようなものだったのかもしれない――こうして書いているうち、そう思えるようになった。


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