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合気評論8

「植芝塾」道場での技法は「武田流相気」から名前を借りて「相生流」と名付けられましたが、これは出口王仁三郎教主の智恵を借りたものでした。大本教の日本における再建のため、最初は信者を対象として教主の推薦する武道ということで普及を始めたのです。
青年武芸者に過ぎなかった盛平(当時37歳)が世間に認められるようになった背景には、教主がいて、すべての演出が教主の指導と後援によるものであったからなのです。この間の実情を理解するためには、大本教と出口王仁三郎についても既述しなければなりませんが、これは次の機会に譲ることとします。当時の大本教をイメージするには、現在活動中の創価学会に軍事・警察・官財界と各界の力をプラス統合したような組織力と実力がある団体を考えるとよいでしょう。ただし、その組織力の規模は、大本教を大人とすれば、創価学会は子どものようなもので、スケールが全然違うものでありました。
 
さて、植芝道場発行の「パンフレット」によると、合気道とは「植芝盛平翁(明治16年和歌山に生まれる)は、新陰流剣術・大東流柔術・相気流・宝蔵院流槍術などを修行して、独自の工夫を加え、精神技術面において、現代に即応した武道を創始した」と説明しております。また、第1~2面の合気道演武大会(日比谷公会堂)の「パンフレット」にも、創始者は植芝盛平翁と宣伝されております。
植芝吉祥丸氏の著書である『合気道(昭和31年)』及び『合気道技法(昭和37年)』にも、盛平翁が考案した未発表なる新武道である、と宣伝しています。

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