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大坪指方先生のこと10

さて、ここで新陰流兵法に関する大坪先生の言説の一部を紹介しておきます。まずは・・・といいつつ、今回、大坪先生は登場しませんが・・・

東京12チャンネル「歴史の証人 柳生一族」より抜粋
八木(アナウンサー):柳生と申しますと、徳川歴代将軍の剣術の御指南役、剣道家の夢でもある「御流儀」として徳川家から大変庇護を受けたことは、いまさら申し上げるまでもございません。(略)作家の山岡荘八さんにお尋ねします。当初は二百石(柳生宗厳)後には一万二千石(宗矩)、平和の時代としてはかなりの栄進ぶりですけれども、これは剣一筋によるものか、あるいは柳生家というものが徳川家にもともと別な意味での功があったのか、いかがでしょう。
山岡:私は、やはり、これは一武道家としての祿ではないと思います。
実は、宗矩が最初に家康に会いましたのが文禄3(1594)年で、それから慶長6(1601)年関ヶ原役の戦功で祖先からの旧領三千石を回復し、その後ずっと加封を受けなかったわけで、初めて三千石の加封を受けて六千石になったのは寛永9(1632)年なんです。つまり秀忠が亡くなりまして、本当に家光の代になったときなんです。長い間貰わなかったわけですね・・・
八木:何年ぐらいですか、その間?
山岡:その間30年以上あると思います。ですから、その間はおそらく随分いろいろな手柄があるのですから、加封してやろうとか、貰ってくれとか言われたことがあるんじゃないか、と思いますが、それをついに貰わないでいたことのなかに、私は柳生の誇りがあったと思うんです。つまり、武道で祿を貰うと、簡単に言うと用心棒みたいな意味になるわけです。自分はそうではない、父石舟斎はいつも家康の指南番として家康を教えてやろうというみたいなものだった。私(宗矩)も秀忠を教え、家光を教えてやろうというもので、だからこれは売り物ではないという、そこに私は不思議な誇りがあったような気がする。それで、いよいよ三千石初めて受けたときには、新しく総目付という、今日で言うと、なんと言いますか検事総長、そういったような役目を受けました。ですからこれが剣術の教師としてでなく、自分も幕府の重要な役人として貰うわけである、というような意味でその後ずうっと順々に一万二千石になるんですが、これを証拠だてるのは、亡くなるときにそっくり一応返していること。私のいただいたものは、私一代でお返し申し上げます。これが誇りのあらわれであって、普通の武道家としての祿ではなかったと思う所以なんです。(続)

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