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公武合体と大東流5

大日本武徳会は京都の官吏や議員などが中心となって、桓武天皇が武術奨励のため設立したという「武徳殿」を平安神宮傍らに再興し、演武を行っていこうとする運動から始まっている。日清戦争において、明治維新前の武士教育を受けた士族の活躍により、武術・武士道が再認識された時代であった。

このような中、国粋主義・軍国主義の台頭を是とするグループと伝統武術が幕藩体制の崩壊からいかに結集再編成するかを考えた人たちが結びき、明治国家の支配層の合意を取り付けることに成功し、町村の末端に至るまでの行政機関を活用しつつ全国規模の団体へと発展したのである。ここで採用されたのは、剣術(撃剣=足軽武術)であり、捕方武術を背景に持つ講道館柔道であった。西郷は、当時の柔道の内側については、養子西郷四郎を通じて把握していた。

非戦論者であった西郷は、このような背景を持ち軍国主義に加担する大日本武徳会を良しとせず、また、武術とは言え下級武士用のものだけが、半官製的な団体により全国に周知されることにも違和感を抱いたのである。そして、日の目を見ることなく歴史に埋もれていた上・中級武士用の武法を惣角に託し、アンチテーゼとして公開していったのである。

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