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会津紀行(雑感)15

西郷頼母の墓所を見に行くと、その中央に先祖である保科正之の墓があった。西郷家は名門であったのだ。
名門といえば会津九家(家老九家とも)がある。九家とは、井深・簗瀬(やなせ)・田中・西郷・内藤・梶原・北原・小原・三宅の各家である。文献によれば「会津家にて家老というは、大家にて北原妥女、内藤介右衛門、西郷頼母、田中土佐、井深茂右衛門、三宅対馬、小原美濃、簗瀬三左衛門、梶原平馬」で、近世この九家以外で家老になったのは、山川兵衛重英、諏訪大四郎頼徳、横山主税常徳ら数氏に過ぎなかった。
明治になり男爵となった山川健次郎(東京帝国大学総長)の遺稿によると、「私の母(山川艶(えん))は、会津藩の西郷十郎右衛門近登之(ちかとし=頼母と祖先は同じ)という人の娘で、20歳の時、私の父(山川重固(しげかた=山川兵衛重英の息子))嫁し12人の子どもをもうけ、成人したのは7人で私はその三男であった。」(兄は山川浩(大蔵)男爵)
「昔は弓・馬・槍・刀の4つが武士の表芸になっていたが、家老の息子などは一体が脆弱なので、辛い槍や剣術稽古は良い加減にして、楽な弓や馬を行って誤魔化していた。」

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