見出し画像

合気評論19

盛平翁の世界観は「合気の動きは、天衣無縫で、天地の動きとともに、計り知れない奥行きと弾力に満ちている・・・」であります。そう言っておきながら、現実の植芝道場で教えている技を見ると、功者は自由奔放な攻撃ではなく、約束の個所-すなわち、腕・横面打・前後から肩など-を攻めさせ、守者となる技も予め約束されたものです。これでは、世界観と法形が完全に分離しているといわざるを得ません。

現代における功者とは、空手・ボクシング・少林寺拳法・レスリングなどあらゆる攻防に対する技がなければ、理論と技術とが支離滅裂であるといわれても仕方がないことでしょう。

植芝合気道の理論と技術はそれぞれ他からの借り物であっても「合気道」という名称は植芝盛平先生(盛平翁は名前を変えるのが好きだったようです。自己の名前を守髙→常盛→盛平と号しています。)が創作された、という仮設を立てている内弟子もおられるようです。そこで、現在の(財)合気会における最も古い戦前の内弟子であった富木謙治氏(合気道八段・講道館柔道七段)の説明を紹介します。
 
『歴史読本(人物往来社)』新年号で発表した「合気道の競技化」なる一文から引用します。
「私が入門した、大正の末から昭和の初めごろは“合気柔術”と呼んでいたが、まもなく“合気武道”と称し、戦時中、大日本武徳会による全国武道界の統制に際して、柔道部に編入された。そのとき“合気武道”の“武”を削って“合気道”となった。」
これが、合気道と名付けられた歴史の真相であります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?