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大東流の転身(中)

大正11年、盛平は惣角から教わりながら大本教の幹部に江戸柳生系の合気柔術の基礎を指導し、同年9月には教授代理の資格を得ていた。このときの説明と進履橋の巻物を伝授されたこともあり、盛平は新陰流兵法に異様に関心を持ち、下條小三郎に入門もしている。
昭和6年から小野派系の合気柔術を教えてよいということで独立を許された盛平は、昭和15年まで江戸柳生系の合気柔術の基礎技法は教えていなかった。このことは当時の門人関係を見てもよく判る。盛平の当時の営業対策もあり対柔道の技が多かったのである。
ところが、昭和15年浅野中将、竹下勇経由で惣角が仙台で倒れたことを聞き、惣角は再起不能と安心したためか技の内容を全面的に変えた。教えてはいけないとされていた江戸柳生系の合気柔術の基礎技法をまた教えるようになったのである。このときは、昭和13年に富木が満洲国建国大学のテキストの底本として富木が作成していた「合気武術教程」を使った、この中に転換と言う言葉が始めて出てくるのである。なお、このことに不満を持った井上方軒氏は昭和15年若松町植芝道場から独立した。小野派系の合気柔術を続けるべきと言う同氏の意見と盛平の意見が対立したからであった。

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