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世を避けた今卜傳 目にも止まらぬ大東流合気の早業

昭和5年8月17日の東京朝日新聞に掲載された、大東流関係者には有名な新聞記事です。

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これは、昭和4年に竹下勇海軍大将が「武田惣角武勇伝」を実話雑誌に公表したことが、東京朝日新聞社の目に止まり、昭和5年に同社の尾坂與市記者を北海道に派遣し武田惣角を取材した際の記事です。
貴重かつ面白い記事なので、以下全文を紹介します。(基本原文のとおりですが、仮名遣いや漢字句読点は、読みやすさを考慮して一部改変しています。また、( )として補足説明を付けているところがあります。)

その昔会津藩の秘流武術として秘められていた大東流合気術は明治になってから、同流の正統武田惣角翁によって幾百年の謎が世間に出た。この武術こそは在来の剣道や柔道等の到底及ばぬ、しかも護身術として最も勝れたものだと言われている。ところが、この武術の正統であり、希代の達人である惣角翁はなぜか、20年前より北海道に世間を避け、ことに数年前よりは北海道でも草深き北見国白浜の在で、鍬を持ち全くの隠とん生活をしている。翁の門弟は全国には3万人もあるというが翁は世の煩わしさ避けて、隠せい生活にいっているのである。
北海道の北端に近い名寄から乗り換えて東へ7時間、北見国白浜在、翁の隠居へたどり着いた。10畳二間がブッ通しで、その外に20畳敷もあろうか、真っ黒くつやの出た板縁の真ん中に5尺もあるような囲炉裏が切ってある。真夏だというのに自在に大きな釜がつるされて、1尺4,5寸もあろう鉄の火ばしが2本、無造作に突き込まれてある情景はどう見ても塚原卜伝とか荒木又右衛門の隠宅の場という感じだ。
「折角のご来訪ですが、主人は6月初めからブラリと出たまままだ帰ってきません。」というのんきなブラリがあるものだ。東京だったら早速捜索願というところだ。「ああそうそう、三四日前、手紙が来ていました。網走の奥の方の小清水という所にいるとか言っていました。しかし、そこから又どこかへ行くから、家に帰るのはいつになるか分からないです。小清水にいればよいが、もしかするといないかも知れない。」という。実に心細い次第、ままよ又7時間費やして監獄で有名な網走駅から4つ目古樋駅(現:釧網本線の浜小清水駅)で下車、それから宵の山道を3里、小清水の待ちに到着したのは夜の12時頃。
ようやくその宿舎を訪ねだしてゆくと「何の用で、どこから来たのです。」と六十七八の古武士然たる風格の老人が言う。名刺を渡して直ぐ後をついてゆくと障子の中から、「何!新聞記事?せわしないな、百姓じじいに何か用があるのかナ、仕方ない来たなら上がるように・・・」と言うのが聞こえる。「せわしなくて会うのはいやだが仕方ない・・・」-初めてのあいさつがこれだ。
碁盤縞の木綿の湯上がりに、兵児帯をぐるぐる巻きにしている風采は、誰が見ても水飲み百姓としか思われない。72歳という年には見えず若々しく元気だ。5尺(約152cm)にも足りぬような小柄で、後で聞いたのだが体重は12貫(約45kg)だとか。ところが、ジロリとこっちをにらんだその目は恐ろしく光って、腹の底まで見抜かねばならぬすごさだ、
「このおやじに何を聞こうと言うのです?」
「あなたの武芸の話」
「百姓の話なら一通りは知っています。一人で2町歩畑を作りますし、1日に大きな木の根を30位掘り起こすからワッハハ・・・」
そのうち雑談から、好きな道は争われず自然と武芸の話になり、各流の話がそれからそれと続く。段々話に興が乗ってきて、翁は高弟(名刺を取り次いでくれた老人は20年間私淑し修行しているのだそうだ。(惣角に同行していた高弟とは、堀川泰宗=堀川幸道の父))を8畳の真ん中に立たせ、翁も立った。「話が済んだから少しご覧にいれよう、サアどこからでもかかってこい。」その仁王立ちの大きく見えること、高弟をねめつけた眼、ぞっとするほどだ。弟子が渾身の力を入れてかかって行ったと見る間に、電光石火「エイッー」かけ声もろとも他愛なくコロコロと転がり「参りました。」と言う。余りにも鮮やかで、むしろあっけない。こうした仕合が十合ほど、それが皆どうして先方をグーの音も出ないようにシメたのか余りの早業で眼に止まらない。「見ていると八百長のようでしょう。」「そうですね。」一向考えなしに言ってしまった。「あなたは柔(やわら)をやったことがありますか、ちょっと立って見なさい。」記者が立った。「ウンと私の首を締めなさい。」相当大男の記者は力一杯に締め付けた。すると「もういいですか。」と言いながら「エーイッ」とかけ声掛かったと思うと翁の首を締めていた記者の両手が折れそうだ。今度は右手を両手で掴め、胸を突き飛ばせ、やれ何をせよなど言われるままにやってみると、どうして倒されたのか自分でも分からないうちに倒されて、翁の両方の足で首と両手を結ぶようにシメ上げられて、両手は折れそうだし、息は止まりそうだ。下から翁をのぞいて見ると、両手を腕組みして「オイオイお茶がこぼれた。」と先ほどの高弟に指摘している。
そのうち本物の刀を抜いていろいろの形を見せてくれた。目の先、鼻の下、眉のあたり、その都度ヒュッ、ヒュッと不気味なうなりを立てて白刃が飛んでくる。「この刀のうなりがなかなか出ません。このヒュッという音が振るたびに出なければ人は満足に斬れません、この1尺2寸の刀をうならすことは、まず難しいです。」-72歳の老人一向に疲れた様子もない。
それから西郷従道候がなかなか技を早く覚えたこと、乃木将軍と那須野で会って、話をし、将軍の百姓姿が気に入ったこと、この流儀は覚えやすいから他人の前で決してやらなかったこと、自分が父から受け継ぐときは覚えが悪いからと言って両手の爪の上にお灸を毎日すえられたと言って、数十年後の今日までまざまざと残されたその跡を見せてくれるなど、午前2時になっても話は尽きない。
「実際にこの技が役に立ったことがありますか。」と水を向けたが中々笑ってはいなかったが、たった一つだけ話した。それによると明治の初年、福島県下で、土工四五十に襲われ8,9人を斬ったことがあるそうだ。
「この技は斬られない、殴られない、蹴られない、殴らない、蹴らない、斬らないという全くの護身術なのです。そして先方の力を利用し先方の出様により応用の措置に出るのです、だから女でも子どもでもできます。力は先方の力を利用します、しかし身作の正しいものでなくては教えぬことになっています。悪用が恐ろしいですから、今東京でいろいろ教えているものがあるそうですが、他人に教えるのは中々のことでなくては教えられません。」
翁の話は夜が明けても尽きそうにない。・・・
写真は惣角翁

見出し画像について
昭和12年9月 大阪朝日新聞社道場における
武田惣角の4人捕の写真
受けは、久琢磨、中津平三郎、河添邦吉及び川崎元悦
後方の見学者は、向かって左から栗田義恵、刀根館正雄、阿久津政義、武田時宗及び河野哲雄

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