合気評論11
参考のため、植芝門下生で、戦前~現在活躍中までの諸流派を例記してみますと・・・
塩田剛三(養神館) 昭和9年入門、以後20年間内弟子として直接指導を受け、戦前は井上・塩田・湯川の三羽がらすとまでいわれた、盛平氏壮年時代の秘蔵弟子であります。戦後一時期、大東流合気柔術の看板で指導したこともあります。
井上方軒(親和体道) 大正末より入門、対柔道に関しては盛平氏より優れている、とまでいわれた逸材であります。最初は。合気武道と称し、その後出口王仁三郎の命名により新和体道と改名しました。
富木謙治(富木流合気道) 大正末より合気道を志し、昭和10年ごろ正式に入門、本部師範の最古参であり、盛平氏の著作を実質的に編集するなど理論家でもありましたが、数年前から合気道競技を始め、富木流となりました。
平井 稔(実戦合気道:大日本光輪洞) 昭和14年入門、大日本武徳会の合気道師範を任命される。盛平氏が合気道とは、槍術・棒術・剣術を一体化したものであると、いっていたそのままの考え方を実践している。植芝流としては一番の正統派とみられます。
大槻 豊(大槻流合気道) 入門は井上方軒より古い、現在大坂で活躍中。
星 哲臣(皇武術) 大東流合気柔術の初伝技法の骨格を見抜き、簡素・形式化した人物。
大津山栄子(婦人皇武術)
田中清太郎(神略兵法)
福井治之助(弥栄流)
藤平光一(合気道)昭和16年入門、戦前の合気道歴2年、昭和30年ハワイで合気体操を研究、現在本部道場はこの藤平流ともいうべきスタイルに切り替えられ、盛平直弟子師範との間に技の解釈についた対立がある。全国35支部の内、藤平流スタイルはまだ少ない。岩間道場の斎藤守弘氏などのように露骨に藤平流スタイルは合気道にあらずと批判している者も多く、将来内部分裂の兆しがある。