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植芝盛平と合気柔術(上)

鶴山先生は、まめな方です。酒席での話題をメモに残しています。植芝盛平の伝記のようなもので、既述の内容とかぶってはいますが、紹介します。

昭和61(1986)年8月23日(土)ACC教室が終わって、飲酒となった。長浜、長野太郎との二人連れである。今日は止めようかなと思っていたが、植芝合気で話がはずんだ、天一にまた入ってしまった。
話の内容は…
植芝盛平(当時32歳)は、大正4(1915)年3月遠軽村で武田惣角に出会い入門、柔術第1か条30本+2本を習っている。英名録には吉田幸太郎(教授代理)も並記されている。この年惣角は宗谷、増毛、天塩などを回っていた。翌5年には上湧別村白滝で惣角の指導を受け、その後、惣角の助手として小樽市他に随行した。
大正11(1922)年9月に、初めて柳生流柔術を習った。これは江戸柳生系合気柔術の初伝であって、小野派系柔術(第1・2か条)を習わないクラスの者が最初に習う技法である、英名録にもこのとき初めて合気柔術という名称が登場する。これは小野派系柔術とは違う系統であることを明確に区別するためであった。このとき初伝印可の証として「進履橋」の巻物が盛平に伝授された。惣角自身は小野派一刀渋谷東馬門人であって、新陰流は習ったことがない。新陰流を柳生流柔術すなわち体術として教えたのだ。そしてこのときに非力の養成を教わったのである。
その後、盛平は惣角から教えてはいけないと禁止されていたにもかかわらず、江戸柳生系合気柔術の指導をしていた。これが惣角の知るところとなり、昭和6(1931)年御信用之手36か条の個人指導を受けている。これは江戸柳生系合気柔術の技法ではなく、小野派系柔術を簡易化した合気柔術(厳しい技法)であった。おまえは「こちらの技法を教えろ」という惣角からの命であった。

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