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武者修行(上)

会津藩では17~20歳までよく武者修行に出たとのことですが、武田惣角の武者修行時代は長かったのです。ただ、惣角の前半生(明治31(1898)年以前)については、本人の述懐があるのみで、それを実証する資料はなくそのすべてが史実かどうかは不明なのです。また、会津御池村の惣角の生家を記してある過去帳が明治時代の火災で焼失しているため、その生い立ちも資料として確認できないのです。

さて、武者修行とは、武士が諸国をめぐり歩き、武術の修行をすることをいいます。その歴史は、一般的に室町時代後期から戦国時代に始まるとされていますが、鹿島新當流64代目宗家の吉川浩一郎氏によると、「新當流正統之血脈」及び「新當流和歌序文」に鎌倉時代の初め塚原卜伝の先師である吉川長慶が諸国を廻遊して鹿島の武術を高揚し武蔵、下総にはたくさんの門弟があった、とあるそうです。
これは室町後期に始まる武者修行と同一のものと見て良いのか、鹿島の剣の紹介程度か判断できない。と鶴山先生は記録しています。

武者修行の目的は、その時代時代により多少異なっておりすべて同じというわけではないようです。主なものをあげますと、
①就職活動 主人を失い失業した武士(浪人)が新しい主人を見つけるため諸国を廻遊する、室町末期から乱世の時代の就職活動です。なお、敵(かたき)を探して他国を偵察する旅行も仇討ちに成功すれば再就職も可能となったことから武者修行と呼ばれたそうです。 
②実力養成 自分の修行した武術の実力評価につき、諸国をめぐり各地の武芸者と立ち会って試してみることです。その間、自分より優れたものに出会えば師弟の礼を尽くして教えを請い、更に一層の実力をつけることに努めるのです。(こちらが一般通念としての武者修行にあたります。)
③評価向上 江戸時代後期になると自藩での評価を高めるための手段の一つとして利用されました。「武者修行(下)」で紹介しますが、藩の許可を得て、すなわち選抜されて武者修行に行き、帰国後にその成果をアピールするのです。

天保10(1839)年窪田清音(くぼたすがね=幕府講武所頭取)著「剣法略記」に「昔は武者修行というと、人々の常に心がけしことなり、これは遠近に限らず、国々へ行きて、その地、その所に名の聞こえし方を問い尋ねて業学びなどで試み、ここかしこに止まり、学び習わしたるに、そのことは国々の風俗、国主城主の様子、士卒の強弱、和不和、兵器のたしなみ方を見聞し、かつ、地理をも図り知ることを心する業なり。」とあるそうです。

いわゆる武者修行で成功した人は、上泉伊勢守、塚原卜伝、伊藤一刀斎、宮本武蔵だと言われています。
武者修行は江戸時代初期までは盛んに行われていたそうですが、元禄(17世紀)以降は幕府により他流試合、真剣勝負の禁止などにより衰退していきました。第11代将軍徳川家斉の天保(19世紀)年間になると再び武芸が奨励され、以降武者修行が激増しました。この背景には、木刀や真剣(刃引き)に代わって竹刀や防具が発明され稽古がやりやすくなり、危険性が減ったことから試合形式の稽古や他流試合も盛んに行われるようになったことが、あります。主題とはそれますがこのあたりから剣術のスポーツ化が始まったとも言えるでしょう。

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