見出し画像

秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 4

(承前)歌舞伎は江戸時代の風俗を取り入れ大衆芸術とされたものであり、現在から見れば古典でありましても、座付作者のイメージや振付けは新作の新劇であったはずであります。
武田大先生はそのようなことには、全く我関せずという立場で、弁慶、義経が出てくる以上、弁慶は千本の刀を集めたサムライであり、義経は鞍馬山で修行し弁慶を破った小天狗であるとする認識の上で批判し、傍若無人の歌舞伎談が生まれてくるのであります。
「勧進帳の弁慶はお能から生まれたものだよ。江戸時代は一流の能芸者はサムライでなければ見られなかったのだよ。お能の弁慶を町民にも見られるように歌舞伎芸としたのが歌舞伎十八番となったのだよ。」ともかく身振り手振りの先生の話し方には特色もあり、それが私の記憶の中に強力な印象として残っております。
武田大先生が「能はサムライでなければ見ることができなかった。能から歌舞伎が生まれ、その所作の中には武技法が少し入っている。」と言われたことを私なりに確かめてみたいと思っていました。教職の余暇に文献等の調査を進めてみました。
能芸は、室町時代に将軍足利義満の保護を受けて大和結崎座(やまとゆうざきざ)に観阿弥、世阿弥という二人の能芸者が出現し、能は著しい発展をみました。それが徳川時代になりますと、大和猿楽(やまとさるがく)は、観世(かんぜ)、金春(こんぱる)、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)、の4座と喜多流があらたに加わり、それぞれ諸大名のお抱え能芸とされるようになり、町民は能を全く見ることができなくなりました。
歌舞伎役者の七代目市川團十郎は、辻講談の「太平記」に登場する武蔵坊弁慶と義経主従の「安宅の関」の物語が観世能として謡曲化され舞踊化されていることを人づてに聞き、どうしてもその観世流謡曲の能舞台を見たいものと思いました。その後、色々なつてを求めて、機会を捉え、危険をおかし、ついに遠見をすることができました。その見たままを、四代目杵屋六三郎(きねや ろくさぶろう=長唄三味線方)に依頼して歌詞を長唄に変え、踊(おどり)の振付けは四代目西川扇藏(日本舞踊西川流の宗家)の座付のスタッフに依頼して研究し、それを天保11(1840)年に世間に発表したところ、大変な反響になりたちまちのうちに歌舞伎十八番になってしまった、と言われています。
観世流と同じ能芸の金春流が新陰流の「三学円の太刀」の組形の表現に大きな影響力を与えていた(*)ことをみても、能芸そのものの技芸の中には武術技法と相通ずる手法があるのかも知れません。能芸の極端に合理化された表現芸術とも言えるその中に昔の武術家たちは何を求めたのであるか、これからの私の研究課題でもあります。
* 慶長6(1601)年2月柳生石舟斎宗厳が金春七郎氏勝に新陰流兵法目録他を授け、以降慶長11(1606)年までの間に五巻、八通の目録などが伝授された。そして、この間に柳生・金春両家で奥秘の交換が行われ、金春からは一足一見という秘伝を、柳生からは西江水の一大事が相伝された、とのことである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?