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武田惣角の思い出

鶴山先生によると、武田惣角の弟子達に接する態度、彼らがうけた印象はそれぞれに異なっていたようです。
堀川幸道には、名付け親を頼んだり、父泰宗に新しい技を息子に教えなければ外に行ってくれと迫られ(幸道が興味を持っていなかったため)惣角が固まってしまったことなど親しさと、涙もろい一面を見せ、山本角義に対しては汲み取りトイレの話など駄洒落のような話があるのに対し、久琢磨は古武士の風格がある立派な先生という印象、酒は一滴も飲まないでウナギが好きで旅館でも桶にいっぱいウナギを飼っていた、というのです。

久琢磨「武田先生には、大阪の一流旅館に泊まっていただいたが、1週間ぐらいすると、宿の亭主が来て『実は、誠に申し訳ないことがございます。お預かりしているお客様にお食事をお出ししても、決して箸をつけてくださりません。何か私どもに不調法があったかも知れませんので、事情をお聴きになってくださいませんか。どんな飲み物もお召し上がりくださいませんから、心配でお伺いしました。』というので、先生のところへ伺いその事情を質したところ、人の作った食事は毒が入っているかも知れないから、外食はすべて自炊している、とのこと。これで旅館の主人に納得してもらった。武田先生の変わった(変人)というところは、そのぐらいのもので、なかなか立派な人であった。」
なお、武田惣角がこのように用心深い(食事の他、抜き身の短刀を身につけていた)のは、武人ということもあったでしょうが、かつて福島の土木作業員との乱闘事件で暴力団員を斬ったり(正当防衛)、北海道では警察の依頼もあり博徒等を一掃したことなどから、その筋からはブラックリストに載ったお尋ね者であったのです。また、彼らのネットワークは全国的なものでしたから、どこに行っても常に命をねらわれる可能性があったからです。

武田惣角の武勇伝について久琢磨は、「武田先生から聞いたのは失敗談ばかりで、武勇伝というのは存在しないというのが、4年間付き合った先生の印象である。」と語ったそうです。惣角の武勇伝はすべて本人がしゃべったもので、剣客商売としてのものであった、と鶴山先生は解説しています。また、惣角は新聞屋(惣角の言い方)にはウソはつけないとの自覚から、久先生には本当のこと、本音を話したのだろう、とあります。

当時、久琢磨は坊主頭にしていたので、武田惣角は久のことを「坊」「坊」と呼び、決して「久君とか、久さん」とは呼ばなかったそうです。酒癖の悪い久先生は惣角に「決して大東流をケンカ用具に使うな。」と再三言われたそうです。あるとき、隣で飲んでいた男達が大声を上げていて怒鳴っているので、久先生が注意したらケンカを売ってきた。頭を徳利で殴られ血だらけになったが「歯を食いしばってガマンした。」武田先生の言葉が頭に浮かんだので、テーブルをわし掴みして耐えに耐えた。(忍、忍、忍は久先生の口癖だったようです。)後日、新聞社にその代表者が誤りに来た、久先生は新聞社の総務部長であったから、新聞ダネになっては困るという意味もあったが、大東流の免許皆伝と聞くに及んで、謝りに来たらしい。相手は見習いの裁判官だった、後日この人たちは立派な裁判官になったそうです。「君(鶴山先生)も、ケンカには手を出さないように。」と以上の話をされました。
この久先生の流血事件(ケンカ)の話を聞いた細川隆元(後に「時事放談」の司会者として有名に、当時は大阪朝日新聞社の整理部在職)は「相手が手を出してきたということは、いくら自分で手を出さなかったとしても、それなりの原因を久さんが起こしている。」と語ったそうです。久先生の酒は我を忘れる、というものだったらしく「サムライの酒ではない。」と断じています。

ところで、武田惣角は昔から酒は飲まなかったそうだが、体質なのか久先生に会ったときはすでに血圧が高かったからかも知れない。このとき惣角は78歳のころであったが、ウナギが大好きで常に栄養に気をつけていたものと思われる。と鶴山先生のメモにあります。

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