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合気評論26

武田家が抱えていた忍法者(忍法の名称は、小説家山田風太郎氏が創作したもので、隠密・忍者と呼ぶのが正しいが、流行語としてここでは“忍法”なる語を使用します。)の種類は、乱波(らっぱ)者と三ツ者でした。

「乱波」とは、少数の集団で主として山間を漂泊して生活する、俗に「山窩(さんか)」と称される山民のことです。

「三ツ者」は、山窩からなる乱波と違って、知能が発達しよく訓練されたスパイなのです。

『甲陽軍艦』には「諸国御使者衆」として、日向源藤斉・秋山十郎兵衛・西山十右衛門・雨宮存鉄という顔ぶれの三ツ者の目頭が見え、その下に200名の侍がいたと記されています。大東久之助はこの士分として、三ツ者の中にいたのではないか、と思われます。

武田惣角が大東流柔術の伝承を受けたという会津藩主松平容頌(かたのぶ)には、惣角の父惣右衞門が伝授したので、間接の父子相伝となっている。会津藩では「体挫術」が大いに推奨されたと聞きます。「体挫術」とは、拳法と忍術を組み合わせたような武芸で、打ち・突き・蹴りに柔術の諸技などを渾然一体化したものだそうで、拳法に隠現自在・虚実転換の技と、遁形の忍術が併用されたもので、その内容は鬼に金棒的な恐るべき威力を持った、極めて能率的なものだそうです。この伝承は、旧会津藩でお庭番であった井上鎌八(後年、江戸講武所教官)が双角流武道として伝えています。

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