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大坪指方先生のこと14

心法はまさに江戸柳生家に数百の記録を残したのが秘められて世に伝えられなかったので、尾張の柳生厳長師の「正伝新陰流」著作の折にも、江戸資料はついに見て居られなかったために、惜しい点もある。昭和30年代に入って、柳生芳徳禅寺橋本定芳老師のお手伝いをして「柳生正木坂剣禅道場」建設に当たり、江戸柳生家の好意で始めて秘書のすべてを拝見し、その一部が教育大学の今村嘉雄博士によって総合研究され「史料柳生新陰流」上下二冊(新人物往来社刊)の大部となって公開されたのである。無筆といわれた石舟斎の兵法百首の原本や、宗矩が三代将軍との交換の手翰(しゅかん=手紙)はじめ、日本武道史研究に大きな影響を及ぼすであろう史料が三百年を経て現れたのである。

兵法家一族の流れ 大坪指方筆より抜粋
興味深いのは、江戸柳生家に残っている文書のなかに、家康から豊臣方五奉行の一人であった長束正家に与えた秘書がある。それには「この中思案して見申候、我よりも先に立ちつつ耳や目の、暗き道にて誘いとぞゆく・・・」とあり、この通り各おのに伝えて欲しいという手翰で、日付けは4月10日とある。関ヶ原の戦(9月15日)の前に石田の計画を察し、五奉行連中に石田の誘いに乗るなとの警告であろうが、なぜこの秘書が柳生家に保存されてあったのか。

さて、大坪先生は「お手伝いをして」と謙遜していますが、政財界への働きかけ等、先生の人脈(山岡荘八、田中角栄など)によるもので、先生なしにはなし得なかった建立でした。「秘書のすべてを拝見し」とこれまた遠慮がちな表現ですが、江戸柳生家の文書の管理一切が大坪先生に委嘱されたのでした。これによって先生は江戸柳生研究の第一人者となったのでした。

大坪先生演武


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