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後襟捕のこと(上)

後捕(後取)には、ほとんどすべての理合が内包された優れた稽古法であると教わりました。後襟を掴まれる想定の原型についての鶴山先生のメモを紹介します。

後襟捕には仕手の掴み方が二種類ある、右手で掴むか、左手で掴むか、であるが、左右対称の体操的稽古ではなく、本来その攻撃方法に意味があるのである。
1右手で掴む場合
これは、鎧組み討ちの技法である。鎧武者は本来騎馬武者であって、馬上から短槍、陣太刀、半弓を操作するので地上戦はないと考えがちである。兜首=討ち取った首のうち、兜を着けた身分ある武将の首、という言葉があって、鎧武者=専門将校を討ち取ることは戦略的にも大手柄、点数が高かったのである。しかしながら戦国期は敵の首を取るよりも、敵将を捕虜とした方がより大きな手柄となった。敵将が旗本であれば、これを捕虜にすることで、敵陣の配置、兵力、装備、備蓄等が判るからである。大東流の後捕はこういった場合に、捕虜にされないための脱出法なのである。すなわち、「後襟を捕らわれし場合」のこととは、兜の後襟=錣(しころ)を右手で掴み引き倒すことである。
さて、錣(錏)とは、兜の鉢の左右や後ろに垂らし首から襟を守るもの。多くは札(さね=甲冑の材料となる鉄・革の小板)または帯状の鉄板を三段ないし五段下がりとしておどしつけた(糸又は皮で綴り合わせた)もののこと。有名な源平合戦での屋島の戦いで、平景清と源氏方の美尾谷(みおのや)十郎国俊が格闘し、景清がつかんだ国俊の兜の錏が切れたという錏引きの伝説がある。これが、歌舞伎に脚色され、一谷嫩軍記(いちのたに ふたば ぐんき)の序幕、摩耶山で非人姿の景清と巡礼姿の国俊が演ずる「だんまり(暗闇の中で黙ったままお互いのことを探り合う演出)」がある。
このように、大東流柔術の後襟捕の原型は錣捕のことであったのだ。なお、鎧組み討ちの技法は錣捕のほか、後肩捕、鉢割の口伝、当身の口伝等体術の中に色濃く残っている。

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