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大東流の三大技法(続)11

植芝盛平は後に合気道という名称に落ち付く武道を創始しました、そしてこれは自己流の武道であると主張しますが、その端緒は大本教との関わりにあるように思えます。大本教武道教室「植芝塾」は聖師出口王仁三郎の勧めで開設しました。王仁三郎の教養の中では、日本の古い宗教と武道が密接な関係があると信じていたようで、大本教の信者に対し、植芝の武道は大本教の神が降臨してもたらされた神秘の武道であるとのコンセプトの上で、宗教と武道を抱き合わせにして普及しようという意図があったと考えられます。そうなると、大本教の神が植芝に降臨して生まれたハズの武道が、新羅三郎義光が創始し、武田家代々に伝承された古武道であっては都合が悪いわけです。そこで、植芝は大東流という名称はできる限り伏せ、自身の独創であると主張したのです。

その後、植芝は竹下勇海軍大将らの要請を受け上京指導を行うようになり、昭和2年には綾部を離れ東京に引越したのです。この東京進出の面倒を見たのは浅野正恭中将ら海軍大学の同期生グループでした。その東京での指導は、最初は軍関係者やその子弟に限定されていました。
植芝の講習は、最初個人宅や貸道場を使っていましたが、昭和6年4月に牛込区若松町に「皇武館」道場を竣工し開設しました。

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