見出し画像

沢庵和尚21

沢庵は歌人であり、大徳寺事件の上告書に見られる如く、説得力のある能筆家でもあった。このことは西郷頼母とよく似ているものと感じる。頼母も歌人であり能筆家であったからだ。
宗矩は沢庵より年上であったが、沢庵を尊敬し、その知見を用いことができたことにより兵法理論を集大成することができたのである。勝海舟がいうが如く、沢庵など宗矩に比べれば大した人物ではない(氷川清話)というのは、誤りで、沢庵を畏敬していたからこそ、その後の宗矩があったのである。二代将軍秀忠は天海に頼ったが、家光は沢庵に相談している。家光は宗矩に対し祖父のような気持ちを持っていた。「近ごろ顔を見せないが、何か怒っているのかも知れない。怒られてもいいから、顔を見せるようにいってくれ。」と沢庵に頼んでいる。沢庵のいうことなら宗矩も聞くだろうことが伺えると同時に、その心持ちがよくわかる逸話である。現存する書簡から家光・宗矩・沢庵の身分を超えた関係をうかがい知れる。

ここに沢庵から宗矩に宛てた寛永11(1634)年10月7日付けの書簡がある。恩赦を受けた2年後やっと大徳寺に帰ることが出来た沢庵は上洛した家光と随行の宗矩に会っている。その後江戸に戻った宗矩あての書状である。数年の懇意に対する感謝、家光が上洛の際、祝儀として町年寄りに配った銀12万枚に対する批判的なコメントなどとともに、追伸として「毎時々々、お目にかかりたきばかりに候。御床しくぞんじ候。寿の伸び申す様に御分別しかるべく候。たばこ御やめ候はずば、胸の痛み止み申すまじく候。かくに皆々成り申し候。」何ごとにつけても宗矩に会いたい。またその健康を気づかい、たばこを止めないと「かく(癌)」になると戒めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?