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伊賀と甲賀10

一方、ふるさと伊賀の地は、慶長13(1608)年伊勢・安濃(あの)・一志(いちし)を合わせ、関ヶ原合戦で家康側についた藤堂高虎(とうどうたかとら)の所領とされた。20万石余であった。
特に、豊臣方に対する防備として伊賀上野城が整備され、高虎の弟高清が城代を務めたが、高清没後の寛永17(1640)に伊賀国の土豪出身の藤堂采女(うねめ)元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。
この初代采女の父は、服部半蔵則直で紀伊国保田庄の豪族であったが、伊賀与野の服部氏の養子となり服部姓となった。元則は則直の二男で、服部半蔵正成と同族である。千賀地(ちがち)谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれた。なお、初代服部半蔵保長(正成の父)の父は千賀地保遠という。
元則は関ヶ原合戦で藤堂高虎の知遇を得、高虎の家臣となった。慶長11(1606)年に徳川家康に謁見し、家康の命で藤堂姓を名乗ることとなった。その後、大阪の陣で功績を上げ5,000石の領主に昇進した。
藤堂姓を許されたのは、服部半蔵正就がお役御免になったことに関係がある。この時点で、江戸の服部家と伊賀衆との縁は切れてしまっていたからである。(完)

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