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会津紀行3

霊山(りょうぜん)神社を出発するとき、もう辺りは暗くなっていた。
今夜は裏磐梯国民休暇村で宿泊である。約2時間のドライブだったが、外は暗く雨もひどくなって景色などはまるっきり見えない。日中ならこの辺りは磐梯山の雄大な姿と檜原湖をはじめ大小多数の湖沼を抱くところである。急カーブの山道でカーブにさしかかった時ヘッドライトの明かりが見える。後方の荷物が右にズズーッと流れ、またカーブで左に流れる。シートベルトを締めるように言われていたので、身につけたがベルトが胸に食い込むように体が揺れる。直線に入ると100km近くのスピードで視界は数メートルである。助手席の大坪先生はドライバーのS君に一生懸命話しかけている。車内の温度はどんどん上がり、時々窓を開けて空気を入れるがどうにも不安と、昨夜の寝不足で体調が悪い。すごく気持ちが悪くなった、窓から手を出して冷気をとるが今にも吐きそうである。
雨の中、国民休暇村に入ったのは7時半ごろであった。風呂に入って食堂に行ったが何も食べる気がしなかった。

母成峠

翌朝、母成峠(ぼなりとうげ)に行った。大坪先生は戦前学生時代に来たことがあるそうだ。ここは母成グリーンラインの途中に造られた見晴らしのいい所(標高973m)で、母成峠古戦場の碑があるが、月曜日ということもあってか観光バスなども来ていなかった。古戦場はここではなく、このすぐ下であった。昭和57(1982)年10月に東軍殉難者慰霊碑の除幕式が行われた。2年前に完成したばかりで一般には余り知られていないとのことである。
母成峠の戦いは慶応4(1868)年8月21日、現在の太陽暦では10月6日であり。ちょうど今の季節である。この紅葉の場所で冬に入るとまずい、官軍(西軍)は全力を挙げて西軍に攻め込んだのである。
また、ここには西郷頼母の歌碑がある。
「なき魂(たま)も 恨みは晴れて けふよりは ともに長閑(のどけ)く 天(あま)かけるらん」
明治になって会津殉難者慰霊祭りが晴れて執行できるようになった喜びを詠んだものとされる。

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