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謝礼問題2

ところが、盛平は武道家としての実力はあったものの、指導者としては教えられる技の数も少なく、生徒もそのほとんどが基礎的な武術の心得もなく、また、中高年も多かったことから、困って王仁三郎と図り惣角を招聘することとしたのです。

綾部での惣角の立場は微妙なものだったようです。信者には盛平の師であることは周知されていたようですが、招聘の本当の目的である「盛平に技をマスターさせるためだけに呼んだ」ことは、信者にはもちろん惣角にも秘していました。

惣角は受講者の顔ぶれ(軍幹部・大本教幹部)を見て、依頼に応え初めて大東流合気柔術初伝(現在の合気道技法の原形)を公開指導したのでした。
参考までに、受講者を紹介すると、海軍中将浅野正恭、陸海軍大佐、海軍少佐などの他、大本教幹部では浅野和三郎(浅野正恭中将の弟)・出口すみ・谷口雅春(生長の家)・岡田茂吉(世界救世(メシヤ)教)などがいました。結果、思惑どおり惣角は合気柔術初伝技法の指導員として盛平を養成し、大正11年9月の教授代理につながったのです。

なお、ここでも惣角は個人指導方式をとっていて、惣角クラス(20人程度)に入れたものだけが惣角の技を見ることができました。惣角の受けは盛平かスエ(惣角の妻)だけがとっていて、他の信者への直接指導はなかったようです。このため多くの信者から惣角(当時62歳)は「勝手にやってきて、武道の押しかけ指導をやっている変なじいさん。」と見られていたとのことです。
惣角は綾部での指導を終わるにあたり、盛平と浅野正恭に合気槍術(後の合気杖)等の特別指導を行い教授代理の資格を許しています。浅野中将は立会人、すなわち社会的身分の高い海軍将官を立会人として盛平に指導員を許したのです、大正11年9月15日のことでした。このとき盛平に印可の印として与えたものが、新陰流兵法の伝書「進履橋」でした。


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