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謝礼問題1

これは植芝盛平と武田惣角のそれぞれの後継者たちの反目の原因となっている金銭問題のことです。
ことの発端は、大正11(1922)年4月植芝盛平が武田惣角を京都府綾部の大本教本部に呼んで合気柔術の指導を受けた際の謝礼の行方にあります。

当時の大本教文献によると惣角に支払われた謝礼金は4~9月までの半年間で4,000円(≑1,600万円、小学校教員の初任給を基にすると1円は現在の4,000円の価値(三菱UFJ信託銀行ホームページより))であったと、砂泊兼基著「合気道開祖植芝盛平」に記載されています。
一方、惣角が持っている謝礼帳には、大本教関係者から謝礼として15回計1,330円受け取り、盛平からは餞別金100円(≑40万円)の他、無名の新刀一振を謝礼として受け取った旨の記載があります。
すると、差額の2,570円(≑1,028万円)はどこに消えたのでしょう?
ここからは推測に過ぎませんが、おそらくこの差額は大本教本部にキックバックされ、教団の活動資金(裏金)になったのでしょう。宗教活動にはお金がかかりますし、大本教がおかれていた状況をみると、資金はいくらあっても足りないくらいだったのではないか、と思います。
問題は、この操作によって法外な謝礼を得る武田惣角という印象を関係者に与えたことだと思います。

さて、ここで惣角が大本教本部で指導するこことなった背景を述べておきます。
大正8(1919)年大本教に入信し、同9年には綾部に移住していた盛平は、当初、聖師出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)のボディガード兼小間使いのような仕事をしていたようですが、王仁三郎の勧めで大本教武道教室植芝塾を開設し大東流柔術(を簡易化した技)を指導し始めたのでした。
大正10(1921)年になると大本教が第一次弾圧事件に遭遇し、代表者出口王仁三郎が不敬罪等で逮捕され、マスコミからは邪教として報道され、極右団体などに目をつけられ大本教幹部の身辺に危機感が迫っていました。
このような背景のもと、当時の官憲の必須科目であった講道館柔道に対応できる唯一の護身術として、右翼のテロ行為にたいする護身法として、信者全体に武術の指導を行うことになったのです。(全6回)


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