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四方投5

(承前)大東流における四方投の基本理念は、京都を守る東北の守護神延暦寺を因縁として、江戸を守る東北の守兵を目的として「四方の固め」を位付けしたものである。会津藩の役割について、白虎隊出身で後に東京帝国大学総長になった山川健次郎の認識を紹介する。

『男爵山川先生遺稿』
昔の減俸の話し
(前略)東北は徳川氏に深い恨みがあり、しかも武功の家柄である佐竹が居た。佐竹の表高は24万石であったが、実際は中々大きかった。維新の頃は実高が89万石あったといわれて居る。又同じく徳川氏に恨みがあり武功の家柄である上杉が居た。上杉は知行高はあまり大きくないが、人数持ちであった。徳川氏に恨みこそないが、事の起こったときどう向くか判らん大々名の伊達が居た。津軽が居た。家康の遺訓ということであるが、西南に事が起こったなら、東北に注意せよとのことだが、これは至極もっともな事で、西南にのみ心を用いすぎ、東北の事を怠っているときに、東北の藩が起こって関東の野に出て江戸城を衝くということになると、非常な大事になるのは明白なことである。したがって、東北の押さえということが大事であった。水戸・会津・庄内を結ぶ線はほとんど一直線である。そこでこの三か所に信頼すべき親藩もしくは譜代大名を置いて、東北の押さえとするというのが徳川幕府の政策であった。それで東濱街道の水戸には、慶長7年に家康の第五子武田萬千代丸信吉を封じ、信吉没後家康の第八子徳川頼宣を封じ、頼信を紀州へ移封後、家康の第九子徳川頼房を封じた(35万石)。
また、西濱街道の庄内には元和8年に徳川の宿将酒井左衛門督忠次を封じ、爾来酒井氏が代々これを領した(14万石)。中通の会津には始め徳川氏に好意ある蒲生氏、加藤氏を置き、寛永20年から三代将軍家光の弟である保科正之を封じた(20万石)。右三家でもって、東北の諸大名を押さえて、関東へ出てしめざるだけでなく、江戸より援軍の来るまで一時防御するためなのであった。
会津人は東北の押さえであるということを夢寝にも忘れなかった。(後略)

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