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山本角義氏の思い出(下)

(承前)山本先生は昭和15(1940)年武田惣角に入門(この時期については諸説あるようです。)、惣角が昭和18(1943)年4月に青森で客死する半年前まで、岩手県の火薬工場の保養所の管理人をしていた。このときの惣角の武勇伝について、先生は次のように話した。

「ドブンとかドボンという擬音語ですぐに連想するのはくみ取り便所である。地方に行くとこのくみ取り便所がまだある。私が管理していた保養所の便所のカメ(甕=陶器のし尿槽)は割れていて雨が降ると地下水がカメに入り一杯になる。あるとき武田先生が腕組みをして真剣な顔立ちで何かブツブツ言っていて。私は、オヤジ何でそんなに難しい顔をしているのかねー、と聞くと武田先生は『もう武田惣角は駄目だなー』とつぶやいた。何がそんなに駄目なのかね-、となおも聞くと『雨が降ったろう、ドブンなんだ、敵の攻撃を避けられなくてね。』、落下物で水がハネル、上までハネ上がったそれを避けることができなかった。」
先生によると惣角はユーモアの達人となってしまうらしい、くみ取り便所で困るのはパチャンとお釣りが跳ね返ってくるからだ。受け取った上は、ちゃんとあいさつを返す、田舎だから義理堅い「フンギリをつける」という言葉はこれが語源かも知れない。だから、中腰になってポイと落としてサッと逃げる。80歳を過ぎた惣角も動作が鈍くなるのはやむを得ない、つまりフットワークが効かなくなったからだ。だから狭い便所の中で惣角は尻を丸出しにして、中気病みのひざで腰をあっちこっちにジルバを踊っていたのである。

山本角義の4

私(鶴山先生)も葛飾の堀切で小学生の頃水害にあったことがあった。新聞紙を何枚も糞つぼへ広げて浮かべ、その上に爆弾を投下した。最初は命中、第1弾はポン、第2弾はバサッ、ここまでは良かったが、第3弾でドボーンという音とともに敵は反撃を加えてきたことがある。同じようなことを惣角が研究したか、分らないが、いずれにせよ体捌きが間に合わなかった、というわけである。

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