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やわら護身術8

これは、筆者(鶴山先生)には、社会環境によって武術そのものの実体や技が変遷されてきている、と考えるからである。家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、2代将軍秀忠の名をもって元和元(1615)年に発布した武家諸法度の第1条には「文武弓馬之道、専可相嗜事(学問や武芸に熱心に取り組む事)」と規定している。武家諸法度は寛永12(1635)年に大改訂が行われ、林羅山が起草し、家光の承認を得て発布された。この寛永法度第2条には「軍役の定、旗・弓鉄砲鑓・甲冑・馬皆具・諸色兵具并人積、無相違可嗜之事(軍役の規則、旗・弓鉄砲鑓・甲冑・馬皆具等各種武器及び人員予定を間違いなく確認しておく事)」と規定がある。規定以外のことは、たしなみ次第とされていたが、実際にはあまり練武に心を用いる武将があれば、幕府に対し異心の疑あるものとして密偵により監視されていた。徳川初期では、幕府の軍制として諸侯(藩主)に武芸をたしなむべき事を許す武家諸法度を制定し、表向きは諸侯は武芸の届け出をすればその件は諸侯に任せることとされていたが、実際には城の改築、軍制強化のための再編成、武芸者を集めることなどが目立つと、その藩は種々な理由付けにより取り潰しとされたのである。
この中で、柳生宗厳が「無刀取り」をもって徳川家の師範家の地位を築いたということは、徳川家の志向する動向に合っていたからだ。すなわち陽流である攻撃的な弓馬槍より、陰流を発展させた護身術的剣術であり無刀取りという体術という志向である。
さて、4代将軍綱吉時代に入り幕府の土台が固まってくると、武芸者を新規に召し抱えたりして幕府から目を付けられるようなことをすると家門断絶、気骨のあった祖父たちも交替させられることから、ひたすら御威光を恐れる気風が現われた。これに伴い、合戦馬術から祭儀用の弓馬術に変化し様式化されていったのである。また、小具足、腰の廻りもさらに細分化され、中国文献の翻案による新解釈を得て柔術諸流派が発生した。室町末期から徳川初期にかけての剣術伝書がもっぱら仏典に同化させようとしているのに対し、安定した徳川体制の中で生まれた柔術の伝書は易学や儒学朱子学に符合させた体系付けがなされている。社会環境によって武術そのものの実体や技が変遷されてきているということだ。

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