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江戸城での刃傷事件と大東流(上)

「大東流の殿中護身術(合気柔術系合気柔術(柳生流柔術=合気道技法の原形))は、松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が起こした事件、つまり有名な『忠臣蔵』がその原典になっている。」と、武田惣角が語っていた旨、鶴山先生のメモにあります。
このことを端緒に江戸城における刃傷事件について、鶴山先生が概説していますので、これを紹介いたしましょう。

江戸城内においては、諸藩の殿様は小刀(しょうとう=脇差)を帯びることが許されていました。殿様は育ちも良く、良識もあり悪いこと(刃傷沙汰に及ぶなど)はしないという認識から、殿中刃傷に対する処罰が定められていませんでした。また、殿様には、例え乱心にしても、一般家臣のように狼藉があれば斬り捨てるというような対応手段もありませんでした。
記録によると松の廊下の刃傷事件に類する江戸城内での刃傷事件は徳川時代に前後9回(7回とする説もある。)一番古いのは、

寛永5(1628)年8月10日の刃傷(豊島明重事件)で、江戸城西の丸において老中井上主計頭正就(かずえのかみ-まさなり)が目付の豊島刑部少輔明重(としま-ぎょうぶしょうゆう-あきしげ)に刺されて死んだ。正就は51歳、徳川譜代の家で大阪二度の陣に手柄を立て、遠江国(とおとうみのくに)横須賀藩(現在の掛川市)52,000石の大名であった。刃傷の原因は明重が仲人をした正就の長子の縁談が破談になったことにあるらしい。明重は脇差で正就の胸を刺して即死させた。このとき小十人番士青木小左衛門忠精という旗本が駆けつけ自害しようとした明重を抱き止めたが自分も重傷を負った。医者の手当てを受けた後、将軍家光が役人を通して後継の男子ありやと問い合わせた。忠精は妻が懐妊している、と答えてすぐ息を引きとった。その後忠精の妻は男子を産んだが、4歳で病死したので青木家は絶えた。刃傷以後、明重の嫡男主膳正(しゅぜんのかみ)継重は12歳で切腹させられた。殺された正就の方は嫡男河内守正利が家禄を継いだ。このとき豊島の一族はすべて罰すべしという声が幕閣の中で起こったが、老中酒井讃岐守忠勝ひとりが反対をした。その理由は、「旗本が老中を果たそうとすれば殿中以外に場所がない。一族ともに重罰を課しては武士道の意地がすたる。」との理由であった。この時代はまだ徳川初期なので、サムライの意地という大義名分が将軍や幕閣の重臣を動かし、豊島親子の切腹で終わった。

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