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大坪指方先生のこと12

八木:それでは、山岡先生にお尋ねしたいのですが、徳川幕府というものの中で、柳生一族が占めた政治的な意味をどういうふうにお考えですか。
山岡:私は、家康が徳川幕府の基礎を固めるのに一番苦心したことの一つの中に、戦国武将の常識を変えなければ泰平の世の中は渡れないということ、ではなかったかと思います。つまりそれまでの戦国武士というものは、槍先でとれ鉾先でとれ、とにかく腕力の強いヤツがどんどん勢力を張ってきたというのが常識だったわけです。ところが、泰平になってそれをやられたのでは方々に騒動が起こって収まりがつかなくなる。この点で今日のなんといいますか、人間改造といいますか、そういうところに一番苦心した。そのための同志をしきりに求めたと思うのです。その一人が藤原惺窩(せいか=儒者、朱子学の祖)を通じて教学の筋を一本通そうとしたことです。武道の方でもいわゆる戦国武道ではなくして、武士の心得としての武道、いざというときには役に立つが、普段は抜かないことをもって貴しとする、といったふうな武道を創設しなくてはならない。その点からいうなれば、新しい徳川時代の武道大学の学長、いや総長として宗矩を選んだと思うのです。
八木:大坪さん、話が一転するのですが、江戸柳生と尾張柳生とでは、実際の剣の力はどっちが上だったと思いますか。
大坪:尾張柳生は上泉伊勢守よりの新陰の正伝をそのまま大事に伝えています。いわゆる刀法を中心にして、それを十分に活かしてそれに武士道的な精神を叩き込みながら二百何十年今日まで堂々として残っています。それから江戸の方は先ほどお話しのあったいわゆる将軍学、つまり為政者の心に正しい剣の原理、武道によって政治の上に顕現するというふうなことを目的とした家になります。そこに二つの分かれたものがありますが、やはり帰するところは一つだろうと思います。なぜならば徳川時代の指導者は武士階級で、その政治指導者階級の政治教育理念の中に溶け込んでいった武道ではないかと思います。

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