武田時宗・宗家独占インタビューについて9
武田惣角見聞記2
(承前)私が語ろうとする惣角と同じ年代頃の知られた武道家としては、柔道では嘉納治五郎(1860~1938年惣角と同い年)先生、剣道では高野佐三郎(1862~1950年)先生がある。いずれも時流に棹さした日本武道界の一方の代表者として高名な方である。このお二人の大先生の運営されていた講道館と武徳会は、また、明治政府の藩閥的な色彩の濃い国策目的に乗り、そしてその大道を歩いてきた人たちである。
大東流の武田惣角は、これらの動きとは別個に、何か隠然たる勢力で根強く、特に反政府的な旧幕府派支持者の多い奥羽地方に深く静かに息づいていた隠れた武道界の代表者の一人であったように覚えるのである。
明治以降、天神真楊流・楊心流・起倒流・関口流柔術など柔術諸流派は時代の流れとともに、そのことごとくが講道館柔道の前に泡沫の如く吸収されていった。しかし、大東流柔術のみは、剣の流れから来る独特な技が多かったため、全国に三万余からの伝承者を得て現在に伝えられている。戦前は特定の方にしか指導しなかった大東流合気柔術の系統(皇武館合気柔術)も、戦後派種々の事情から「合気道」とその名称も衣替えされ、また盛んになって来た。
惣角が一方の武道界の代表者であったと考えられることは、徳川幕府初期の将軍家御指南役として各藩大名に羽振りを利かせていた柳生一族の繁栄と、武術界一方の代表者であった宮本武蔵との対比にまた似ているからである。(続)