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図表基準・花輪さん資料6

佐川氏の門人で吉村某(堀辺正史のこと)がいたが、最初、中野駅前で「武田流合気道」を名乗り、2年後に「換骨拳」を名乗り、2年後に「双気道」を名乗っている。出版物も出しており、内容ではいずれも大東流合気柔術から発展させたものと主張している。

このような人はいくらでも身近に見られる。2、3年で名称を変え道場も変える。門人を育てるには10年はかかるから、手足の如く動く門人が数人育てられなくては代表者とは言えない。それだけ武道は難しいもので、成功者の方が少ないものであるからだ。であるから、佐川道場も佐川氏限りであろう。堀川・山本両氏の場合と同じである。

佐川氏は秘密主義で門人が少ないが、堀川・山本両氏はその生涯で、1万人くらいの人を指導しているものと思われる。私(鶴山先生)も数年前に1万人を突破したが、その門人の中で、現在も残り立派な指導者となって師範となった人は少ない。

久琢磨の場合
久琢磨は本来大阪が地盤であり、門人も多かったが、その相手は新聞社とかガス会社、また弁護士などで、大阪でさえ、その名を知る人はほとんどいなかった。道場を探しても、職場サークルで一般の人はその内容も知り得ない存在であった。のちに「琢磨会」が出来たが、これも専門家の間では無名に等しい。出版物を発行して存在活動をすることになるのか? 久先生が死んで4年、10年までまだ時間があるが、分裂・仲間割れせずにアマチュアグループとして活動していけるか、今後の問題である。

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