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槍と合気道9

これらに人たちは同じ盛平門下でありながら、それぞれが異なる合気道像を持ち、組織活動も別個に行っている。そのため、植芝合気道を系統的に学究せんとする場合は、盛平門下の各道場を歩き、体験的に実体を究明する必要があり時間的なロスがあった。植芝盛平先生が創始したという“合気道”は誰がその本流(本筋)を歩いている指導者なのか?また、誰が合気道の正しい座標軸を把握しているのか、それらを選眼選別するための資料がなかった。

この問題に関しては、戦前派の師範(富木・望月・塩田・平井)たちも、故意に口を閉ざしてきた。しかし、最近になって変化が現れてきた。この現象は植芝合気道共通の師植芝盛平先生が亡くなってからである。

筆者(鶴山先生)が戦前派と戦後派にわけた端緒の一つは、その関係する団体の変遷にも一因がある。

植芝盛平先生は、昭和2(1927)年綾部を離れ東京に進出した。その後、間借りや仮設道場で指導をしていたが、昭和6年には牛込区若松町に皇武館道場が完成し、東京に根拠をもったのである。そして、昭和15年4月30日付けで「財団法人皇武会」が認可された。初代会長は海軍退役竹下勇であった。
終戦から3か月後、昭和20年11月22日、東京丸の内の常磐家において、「財団法人皇武会」の終えんが確認された。武道がGHQにより全面禁止されたことによる措置であった。

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