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江戸城での刃傷事件と大東流(中)

それから57年後の貞享元(1684)年8月28日江戸城表御殿竹之廊下で大老堀田筑前守正俊が若年寄稲葉石見守正休(いわみのかみ-まさやす)から刃傷(稲葉正休事件)を受けた。
正俊は春日局の養子として育ち5代将軍綱吉に用いられて、大老職まで出世した。13万石の大名であり幕閣の最高位に座したが、性質は剛直で政務にも厳しい態度で臨んだ。
刃傷を仕掛けた正休も徳川譜代の家で所領12,000石、父の伊勢守正吉は明暦2(1656)年駿府城御番(護衛)を務めているとき、39歳で家来2人の手に掛かって殺された。原因は男色のもつれだったという。正休は妻につながる縁で正俊とは親戚であり正俊の推挙で若年寄に列した。
この刃傷の発端は、殿中の公式の席上、正休は大老正俊からときどき小言を受けていたという。刃傷事件が起きた前夜、正休は正俊の屋敷を訪ね夜の更けるまで二人きりで酒を酌み交わしていたという。おそらく話題は政治上のことだったと思う。刃傷は翌日の正午ごろに突発的に起こった。正俊が御用部屋から竹之廊下に出てきたとき、正休が待っていた。正俊のあとから老中大久保加賀守忠朝、戸田山城守忠昌、阿部豊後守正武の3人が距離をおいて出てきた。正休は急に肩衣の右袖をはねると同時に脇差を抜きざま、正俊の前に立ちはだかり胸から背へ刺し抜いた。「狼藉者」と叫んだきり正俊は倒れた。胸には脇差が刺さったままであった。正休は呆然と立っていた。
先の3人の老中はあわてて脇差を抜き正休をめちゃめちゃに斬りつけた。大騒ぎになったところへ長袴を捌いて御三家の徳川光圀(みつくに=水戸黄門=当時57歳)が急いできた。正休は3人の老中に斬られ息絶えたまま廊下に倒れ、正俊は大名や旗本に抱えられ御用部屋に運ばれた後であった。光圀は刃傷の様子を聞き、血刀を下げている3人の老中を叱りつけた。「石見守を取り押え、刃傷の事情を問いただすこともせず、直ちに討ち果たすとは、粗忽(そこつ)である。」と叱ったのである。正俊絶命後、家督は嫡男下総守正仲が継ぎ、下手人であった正休はお家断絶の沙汰を受けたのである。この刃傷事件は政治上の意見の衝突が原因であった。

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