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東北鬼門の守り(下)

桓武天皇は、都をこの山城の高野川・鴨川・紙屋川の流れる盆地に定めるのにあたって、藤原小黒麻呂に実地踏査をさせた。「この所は、四神相応の地なり。しかれども東北に当たりて、一高岳あり、東北はこれ鬼門なり。たまたま四神相応の霊地を得るといえども、百僚(多くの官吏)畏怖の難なきにもあらず、遷都の儀式、よろしく天察あるべし。」小黒麻呂の癖のある漢文の復命である。

このことは「旧事本紀(くじほんき)」に載せられているというが、これを引用しているのが鎌倉末期にできた「延暦寺護國縁起」だから、小黒麻呂が本当に上奏したかは「旧事本紀」にそのくだりが残っていないので不明である。

山城の盆地に新京の造営が進み、延暦15年に大極殿が出来た。その翌年に最澄が私的に建てていた比叡山寺が驚くべきことに官寺になった。近江の正税(国税)をもって充てよということになった。また、最澄自身は内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)という官職の一人に加えられたのである。この当時、宮中にも仏堂があった。内供奉十禅師とは供奉(奉仕)する10人の僧であって、天皇のための侍僧といっていい。

さて、天海和尚が東照宮を日光に造営することを薦めたのは、若いとき修行したといわれる比叡山延暦寺の由来により京都と江戸を対比して、東北の守り神として、徳川家の守護として、位置づけるためであった。同じ意味で松平正之が会津23万石を拝命したのは、江戸の東北に当たり後方から江戸を脅かす仙台伊達政宗への配意からであった。会津藩が盾となるという役割を果たすということである。

四方投の第一義はこの東北・鬼門に投げることであり、この技の中に会津藩の宿命的な役割が表わされているのである。

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