伊賀と甲賀8
その後、万治元(1658)年に老中松平伊豆守信綱を頼って、甲賀古士(こうかこし=甲賀在住の元侍であった農民)がその窮状を訴えている。甲賀組の内、郷里に残って帰農した本家筋の者は、当初除地(じょち:年貢免除地)など、特権を維持していたが、時代が進み分家によって田畑が分割されていくなどして生活が苦しくなっていったのである。
さて、四代将軍徳川家綱(在位1651~1680)の時代の話しである。
当時は、寛文3(1663)年殉死を禁止、このころから町飛脚が始まる。
寛文5(1665)年金銀売買禁止、保科正之・山崎闇斎(儒学者)を登用、水戸光圀が朱瞬水(明の儒学者)招く、寛文6年山鹿素行赤穂に流される、海外ではルイ14世の親政が始まっていた、そんな時代である。
寛文7(1667)年2月18日「江州甲賀古士共惣代」を名乗る上野又左衛門秀影ら16姓76人連名で仕官を求めた訴状を提出した、武士身分の獲得を画策したのであった。この中で、室町幕府時代から始まる甲賀五十三家の由緒、さらに、重きを置かれた甲賀二十一家について言及し彼らの先祖が家康や幕府のために貢献した歴史に触れ、仕官と生活の援助を求めたのである。しかしながら、時代は変わり彼らの要求はかなわなかった。
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