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武田惣角と大阪との関わりについて9

(承前)長谷川宅での教授の後、惣角は時宗と共に朝日新聞社別館道場で大阪朝日猛者達を指導したが、惣角の稽古は厳しく、猛者達も恐れ主に久琢磨(角力八段・柔道五段)が惣角の相手となって稽古をした。
武田惣角来阪以前に植芝盛平は高弟を引き連れ3年間、大阪朝日道場で久琢磨以下に大東流の技法を大日本旭流と称し指導していた。この時はまだ盛平は「合気道」と称していなかった。昭和10年12月8日第二次大本教事件発生し、治安維持法違反、不敬罪で大本教関係者多数検挙されて各警察署に大本教の印あるもの多数押収されていた。
惣角は浦和警察署にて指導した折り、愛弟子植芝盛平の安否を心配して、惣角に随行した時宗、佐川幸義の両名を若松町植芝盛平宅に差し向けた。植芝宅では大本教関係物件は押収されており家人は盛平は紀州田辺に帰り謹慎しているという返事で、その旨を二人は惣角に報告、惣角は盛平の無事を喜んでいた。
私は大阪に行き、初めて盛平が大阪朝日新聞社梅田道場管理人久琢磨のところに匿われていたことがわかった。久は惣角に会うように盛平に勧めたが、盛平は惣角の宿舎の近くで手を合わせ拝し惣角に会わずに帰ったと聞いたので、惣角にその旨を話すと「元気か」と一言安堵していた。(続)

補足説明:このあたり、『合気道開祖 植芝盛平伝(植芝吉祥丸著)』では、「12月8日第二次大本教事件発生、大本関係者の大半が逮捕拘禁された中にあって、すでに大本教との直接の関わりがないこともあり、さらには各界各層への武道振興の貢献が認められ、開祖に累が及ぶことはなかった。」とあります。


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