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沢庵和尚10

大坂夏の陣のあおりを受け、沢庵和尚の南宗寺は全焼した。この年の暮れ、沢庵は故郷但馬の油屋村尾彦右衛門にあて長文の手紙を書いた。世外の高僧ながら大坂落城に大きな衝撃を受けたのである。
「さても天下一変の後、音信不通・・・このように移り変わる世とは誰しも思いながら・・・夏より己来(このかた)候。・・・心のまっなる友もあらまし、目に見る有様を語り、慰めもあるべき、世の中の人は富貴栄華の物語より外なく候へば、更々我ら式の類いは独り無情の窓に向かいて、独り言いて暮すばかりに候。・・・このたび遭いがたき法に遭い、一つの心をさとり、真如の至りを胸にすまし、長夜の闇を照らし三無不可得の心に得て、在家ながら正覚の位に至りたいとは思わぬか。」
沢庵は3年を費やして南宗寺を再建したのである。その後、次なる試練、紫衣事件が待っていた。
 
家康の政治顧問にして、黒衣の宰相といわれた金地院崇伝、幕府の宗教統制の方針を先鋒となって大徳寺派対五山派の争いに活用、大徳寺派を駆逐したのであった。この結果、出羽国上山(山形県)に流罪となった沢庵は3年間この地で、武芸熱心な山城守頼行から厚遇を受けたのである。
寛永9(1632)年二代将軍秀忠が亡くなり宗矩、天海僧正の尽力で沢庵は恩赦を受け、同年7月赦(ゆる)されて江戸に戻され、さらに2年後大徳寺に帰ることが出来たのである。

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