見出し画像

鶴山先生と久先生1

鶴山先生は、昭和39年大阪に久琢磨先生(当時69歳)を訪ねました。鶴山先生が合気道を始めて4年目のことでした。その後、昭和41年に総伝11巻、昭和44年に当身活法、そして昭和52年11月3日に皆伝を受けたのでした。
鶴山先生は、昭和49年11月から朝日カルチャーセンターの「女子護身術」講座(後の合気道教室)の講師を始めました。翌昭和50年7月には「朝日カルチャー女性合気道 会報第1号」を発行しています。さて、久先生は「合気道講座」の総監督として、講師陣に名を連ねていますが、これに関する秘話を紹介しましょう。おそらくこのことが後々、鶴山先生と久先生のギクシャクした関係を生む一因となった、と思われます。

小生(鶴山先生)が、朝日カルチャー合気道講座で久琢磨を引き受けたのは、カルチャーの企画部長である高橋取締役から、石井光次郎(久琢磨の先輩、法務大臣等を歴任)に社長が頼まれたので「君もやりにくいだろうが、面倒をみてくれ。」と依頼されたからである。その実態は、「久琢磨には、朝日新聞から年金が出ていないので(昭和19年退社)、年金代わりに支出したいが、肩書きがなければ出せないと言うことで、カルチャーの合気道講座の話が出てきたのである。」そこで、高橋取締役は5万円/月ぐらい出したいからと、名目を総監督ということにして受け入れることとしたのである。久は仕事も出来ないだろうから、という同情もあったようだ。

久琢磨先生


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?